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戦国クラス転生  作者: 月本 一
209/296

208 ●第二次月山富田城の戦い

感想、誤字報告いつもありがとうございます。

次回更新は08/11(日)

(1555-1557 ●毛利隆元(35)視点)

 周防・土佐・安芸の三国同盟が成った(200話)。土佐から借り受けた1000人の鉄砲足軽を率いて石見銀山攻略に出兵。石見銀山攻略とはいえ、石見銀山は商人の独自権益で、銀を輸送する通行料を取っているにすぎない。銀山周辺にある城を攻略することになる。山吹城を早々に落城させ、周辺の尼子氏側諸城を次々と攻略していった。


 対する尼子晴久は出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後、8ヶ国の守護及び幕府相伴衆となっていた。急速に勢力を拡大していたため、多くの前線を抱えていた。出雲国内でさえも尼子一門での確執・軋轢は激しく、独立勢力だった杵築大社(出雲大社)にも手を焼いていた。


 陶氏が討たれ、周防・安芸が混乱する筈が、同盟が成立。石見銀山周辺を毛利氏に落とされたことで、尼子晴久自ら大軍を編成し、押し寄せてきた。播磨・美作・備後の戦線を後退させ、2万を超える兵を整えてきた。


 周防に駐屯していた土佐兵3000人を含めた大内氏からの増援5000人が石見で合流。毛利軍と合わせても尼子軍の半数。とはいえ遠征してきた相手に十分な準備を整えて迎撃することができた。1000丁を超える鉄砲の威力は凄まじく、尼子軍に多大な被害を与える。追撃を加えると2000人を超える死者が出た。尼子軍はより多くのケガ人を抱え敗走せざるを得なくなる。


 大内軍も毛利軍も土佐の鉄砲足軽部隊の元で鉄砲の扱いや運用、戦術を実地で学ぶ意義は大きかった。特に籠城時での迎撃では実践する機会もあった程だ。


 吉田郡山城に戻ると軍を再編。出雲攻めの準備にかかる。ここに一条房基から贈り物が届く。出雲の詳細な地勢図と月山富田城周辺のジオラマセットだった。一条房基は吉田郡山城にも何度も来ており、城内に明るい。軍議の場にあわせたサイズの模型に毛利家内一同は唸るしかなかった。


『この模型は一条公にお願いして用意したものになります。この度の出雲攻めは私が当主として総大将を務め、父上(元就)には吉田郡山城に残って差配していただきます』

一条房基からの手紙には、今回の戦で父元就を超える働きを家臣や国人に見せて、当主としての権威付けをするよう助言があった。


「13年前、大内義隆殿の大軍でさえ攻め落とせなかった。どのように攻めるつもりだ」

居残りをさせられる父元就は不満そうだ。58歳になって老いも目立つようになっていた。当主は私であるが、毛利家の中心はやはり父元就である。石見での戦いからの連戦。今度はこちらから遠征する。無理はさせられない。


『本城である月山富田城は最後に残します。まずは周辺の諸城を1つずつ落とします。白鹿城を落とせば海側からの兵糧を絶つことができます。(三男・小早川)隆景には水軍を率いて、海側から攻めて貰います』


「石見攻略時に温泉津に水軍を廻してそのまま残しているが、城攻めには心許ない。いかがするつもりだ。兄上」

毛利水軍を束ねる隆景が聞いてくる。


『村上水軍に船だけ廻してもらっている。兵は陸路で途中の港で乗せることとしよう』


「兵は陸路か?」


『村上水軍の船には大量の武具・兵糧を運んでもらう。新しく購入した鉄砲も運んでもらう予定だ。今回は大内軍の土佐衆は周防に戻ったままだから、毛利内で鉄砲足軽部隊を新設する。小早川水軍の海戦で運用してもらう』


「おぉ、俺もいよいよ鉄砲部隊が使えるのか」

周防、石見とその威力を体験しているだけに隆景の声が弾む。


『俺も鉄砲部隊が欲しいぞ」

次男である吉川元春が声を上げる。


『毛利で借り受けている土佐衆は元春の指揮下に入れる。ただし、尼子も今回の大敗で鉄砲を急いで手に入れようとしているだろう。相手側にも鉄砲があることを念頭にした戦になると考えたほうがよい。相手側の鉄砲の数が増える前にいかに早く攻め落とすかが大事だ』


「よく考えているようだ。わしはもうお役御免だな」

父元就が満足そうに頷く。


『いえ、父上には一番大変な役を担っていただかねばなりません。戦況は逐次報告させていただきます。1日1報。戦況次第では2報でも3報でも届けさせます。父上にはこちらで出雲・石見・備後・美作、各地の国人に書状を送って、調略していただきたい。状況次第では残っている兵で備後や美作に攻めていただいても構いません。ただし、父上は動かないで下さい』

筆まめな上に顔も広い父上にしかできない仕事だ。


「戦わずして勝つ、か」


『その通りです。なるべく多くの城を無血開城できるに越したことはありません。勝利は確信していますが、こちらの被害は少ない方がよい。それに火薬も弾も高価です。月山富田城攻めまで十分な量を残しておきたい』


「様子見する国人は無視して進軍し、後から降らせることも考えれば進軍速度も上げられるだろう。出陣前になるべく多くを想定し、お互いの認識を擦り合わせておくことにしよう」

こうして軍議は深く、長く続いた。父元就の考えは広く、多彩であり、受け止めるだけで精一杯ではあったが、越えられぬ壁の向こう側が見えてきた気がした。それを感じ取ったのか父もまた上機嫌のような気がした。


 結果として、月山富田城陥落には2年の月日がかかった。砦や支城を20以上落とし、本城を包囲。主要な櫓は土佐衆の砲撃で沈黙させて、無理攻めをせずに兵糧を絶った。尼子晴久は自害を条件に開城した。幕府による和睦の仲介はあったが、前線と父元就の吉田郡山城とでたらい回しにし、のらりくらりと引き延ばしている内に、幕府内の内紛でそれどころではなくなったようだ。


 戦後、月山富田城には吉川元春が城主として入った。美作・備中・備後を攻略していく。尼子氏を降したことで、以前からの約定通りに石見銀山を朝廷の御料所として献呈する準備を始めた。石見銀山を攻略して2年の収入は毛利家の財政を支えてくれた。石見銀山を手放すことにはなるが、出雲を押さえたことで朝鮮・明との貿易ルートを手に入れたし、出雲鉄・伯耆鉄の交易による通行料が入ることになる。尼子氏があれほど広く戦線を拡大し、8ヶ国守護にまでなった資金源を把握し、管理すれば更に飛躍することができるだろう。

 史実の月山富田城攻略は尼子晴久急死(1561年)後の1566年。尼子晴久が亡くなるまで毛利は石見銀山を手にすることはできませんでした。こちらの10年前倒しは厳島の戦いの後に尼子氏に大敗した忍原崩れ、降露坂の戦いは起きず、大友氏との両面戦争ではなかったことが要因となります。前半の石見銀山攻防戦は忍原崩れの結果を逆転させた内容となります。

 何よりも1563年に毛利隆元が死亡。おそらく尼子氏による暗殺であり、それが回避されたことになります。


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― 新着の感想 ―
[一言] 石見銀山での二千の死者によって尼子はすでに「大手」状態になってそうですね。 元々人口も少なめで広い国境線、そして国人領主の集まりということから死者と同数程度のけが人などが出ていれば籠城のため…
[良い点] これで中国は一段落かな
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