209 ●三好長慶暗殺未遂
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次回更新は08/18(日)
(1556-1557 ●三好長慶(35)視点)
5年前に阿波で土佐製の鉄砲で手痛い目に遭った(180話)。それを機に堺での鉄砲増産の後押しをし、優先的に鉄砲を手に入れ、兵に習熟させた。その堺筒の実戦投入により各地の戦線が大きく変わっていった。
長弟の三好之虎(実休)は主君であった阿波国守護・細川氏之(持隆)を殺害(勝瑞事件)。足利幕府の命を受けた細川氏之に播磨・讃岐・伊予などの戦に駆り出され、土佐侵攻では多くの兵を失ったばかりか、土地を切り取られた。主君面され続け、遂に堪忍袋が切れたようだ。細川氏之の子である真之を主君として擁立し、その母である側室であった小少将を自らの室に迎え入れる。細川家臣や阿波の国人衆達は猛反発するも、粛清に次ぐ粛清で力づくで沈静化させた。阿波国に居たままだと危険だと判断し、本土に移る。今は河内国の安見宗房と係争中で飯盛山城を拠点としていた。
次弟の安宅冬康は淡路から播磨へ攻め入る。土佐との不可侵条約があり、阿波も淡路も後背を気にせず攻めに討って出られる状況だった。明石氏・別所氏を降し、東播磨を切り取る。別所氏の三木城を拠点とし、尼子氏・三木氏・浦上氏と対峙していた。その後、尼子氏は毛利氏に対抗するために播磨からは撤退していった。
三弟の三好冬長(十河一存)は和泉国の岸和田城を拠点とさせた。
私は丹波国の義兄波多野元秀を降した後、芥川山城に居城を移した。京のある山城国ではなく、摂津国の中での移動だった。芥川山城は細川晴元が政務を執っていた場所で、細川政権が終わり、三好政権に変わったことを内外に示すことになる。大規模に城を改修し、城下町を整える。飯盛山城・三木城・岸和田城も大きく改修させる。河内・播磨・和泉の支配拠点に相応しく、鉄砲の時代にあわせた城に変わっていくことになる。
城や城下町の整備。鉄砲と火薬や弾の購入。鉄砲に対抗する防具の購入。とにかく大金が必要だ。播磨・摂津・河内・和泉・淡路・阿波の6国を実質的に支配していても足りない(山城は細川氏に丸投げ、若狭・丹後・丹波は松永兄弟が担っている)。戦線が多く、抱えている兵も多い。段銭、棟別銭、間別銭など臨時の税金を恒常化させていった。民からは搾り取るだけ搾り取っていた。支出は増大していたが、消費も増大しており、戦争特需のような状態になっていた。自ら感覚が麻痺していると薄々感じていた。
幕府や朝廷とのつきあいや交渉もあり、頻繁に京に滞在することもあった。最近では鉄砲の独占を指摘され、幕府から他家への販売を阻害しないように注意を受けた。相伴衆となり、将軍足利義維の配下となっているが、元主君の管領細川氏綱は幕府政務の中心人物であるから無視はできなかった。種子島は元より、美濃筒・備前筒・根来筒・大和筒など各地で鉄砲が生産され始めていたため、堺筒に歯止めをかけても意味をなさなくなり始めていたので指示を受け入れた。京に滞在中に2度の襲撃を受けた。刺客の身元は不明で、細川氏なのか六角氏なのかはっきりしなかった。
堺でも1度、滞在先の南蛮寺で襲撃を受けた。堺ではキリスト教の布教許可を出したことで、ポルトガル商船が頻繁に来るようになっていた。南蛮寺がいくつも建てられ、三好家の家臣にはキリスト教に改宗する者も多くいた。堺での刺客には僧兵が混じっており、後に本願寺勢力と判明した。法華宗とキリスト教の庇護者である仏敵三好討滅すべし、と声高に叫んで襲ってきた。
堺から飯盛山城へ移動。その飯盛山城で毒を盛られた。喉を焼かれ、高熱を出し、数日間生死の境をさまよった。弟の三好之虎は同じ毒で死亡した。その間、時を合わせたように紀伊・河内の守護である畠山高政が攻め寄せてきた。これは家臣達が撃退した。
私と弟、どちらを狙った犯行かはわからずじまいだった。阿波細川氏、本願寺、畠山氏、六角氏、心当たりが多過ぎた。それでも弔い合戦の相手は必要で、一番怪しい畠山高政を攻めることになる。2人の弟たちも河内に呼び、戦力を集中させて追い立てた。河内国から畠山氏勢力を一掃するが、紀伊に逃げ込んだ畠山高政を攻めあぐねた。後背の本願寺勢力にも注意が必要だし、阿波からも不穏な情勢が伝わってきていた。一旦、幕府が仲介してきた和睦に乗るしかなかった。領地が広くなり過ぎ、敵対勢力も増え、情報収集や精度が低くなっている。早急に態勢を整える必要があると感じた。
史実では三好実休は畠山高政との和泉国久米田の戦い(1562年)で戦死しています。
十河一存はこの話では十河氏に養子に入らず三好姓のまま。足利義冬(足利義維)から偏諱を賜り冬長としています。五男・野口冬長は存在しないものとして扱っています。
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