母
キエリが魔獣の王に連れてこられたのは、何かの研究施設のようだった。
大きな水槽がいくつも設置されていて、中は水ではない特殊な溶液で満たされている。
『ここは‥‥?』
『ここではね、戦う用の‥‥君たちの言う魔獣を作っているのさ。知能は低いけど、いうことはきくからね』
キエリの思考が一瞬停止した。
『魔獣を、つくる?』
『うん、おかしなことはないさ。他の魔獣だって元々は僕の魔力から生まれているんだよ‥‥君の一族は違うようだけど』
言葉の端で魔獣の王の顔が歪んだが、すぐに穏やかな表情に戻った。
『それを踏まえて、作ってみたんだ。エンティアっていう頼もしい魔法使いもいるしね』
このひとは、一体どこまで残酷になれるのだろうか。
どれだけ、命を冒涜すれば気が済むのだろうか。
戦わせるために命を作り出したこのひとには、罪悪感というものは心の一かけらも存在はしないのだと、キエリは改めて思った。
『あ、いたいた。ゼノ!』
水槽の前にはゼノとアーラがいた。
ふたりは相当驚いた様子で魔獣の王とキエリを見た。
『我らが王が普通に外を歩けている! きゃー! 嬉しい!』
アーラは、王の悲願がかなったことが嬉しいのか、両手で顔を覆って今にもうれし泣きしそうだった。
一方ゼノは、くったりとしたキエリを見て、心配そうに顔をしかめる。
「キエリ、大丈夫? もう聖水の効果は切れる頃なのに、疲れているの?」
『ゼノ、頼みがあるんだ』
ゼノの心配を無視して、魔獣の王が詰め寄る。
ゼノはたじろいで、驚いた様子で数歩下がった。
『彼女の記憶を全部消してほしいんだ』
「え?」
ゼノは、魔獣の王の願いに、顔がこわばりからだが硬直した。
「ど、どういうことですの?」
魔獣の王は、あいかわらず無邪気な満面の笑みでゼノに笑いかける。
『あはは、驚きすぎて、人間の言葉になってるよ』
『なんてことはないよ。彼女の記憶をまっさらにしたいんだ。君ならできるよね?』
魔獣の王は、満面の笑みから、突然悲しみに溢れた顔に変わった。
キエリには、魔獣の王の本当にあるのかわからないこの感情の変わりようが怖くてたまらなかった。
『彼女は、今まで辛い思いをしてきたのだろう? そんなの、これから彼女が幸せになるためにはないほうがいいと思わない?』
『ほら‥‥彼女は父親も母親も亡くなっているのだから‥‥そんな記憶はないほうがいいだろう?』
魔獣の王の言葉にキエリは怒りでからだ中の血液が沸騰してしまうかと思った。
(なんて非道なことをゼノに突き付けるの! 彼女の心に一番重くのしかかっていることを引き合いにだして、自分の欲望を満たそうとしているんだ!)
「だめっ! ゼノ、このひとの言うことなんて聞かないで! このひとはあなたを利用しているだけなの!」
キエリは必死にゼノに向かって叫んだが、ゼノは、呆然として立ち尽くしている。
そこに、いつもの笑みはない。
「ゼノ‥‥」
(わたしの言葉が‥‥ゼノに届くの? 今までゼノを否定して、拒絶してきたわたしの言葉が‥‥)
キエリが半ばあきらめて俯いたその時。
『できない‥‥』
「‥‥っ! ゼノ‥‥」
キエリは、ゼノの答えを聞いて目を見開いてゼノを見る。
ゼノは、両手を握りしめ、苦痛に耐えるように唇を噛みしめていた。
『アタクシにはできないわ。キエリの記憶を消すことなんて‥‥』
魔獣の王は、眉を八の字にして、困り顔になった。
『どうしてだい? 彼女の近くにいた君が一番よくわかっているだろう? 彼女を苦しめているものを』
『そうよ‥‥アタクシと暮らし始めた頃なんて、全く笑わなくて、食べ物も食べてくれなくて、時々悪夢にうなされて‥‥本当に大変だった。今だって、優しいアタクシのキエリが人間と魔獣が戦うこんな状況に心を痛めていることだって、本当はわかってるわ‥‥』
『だったら‥‥』
『でも、辛い思い出もあったけど、アタクシと暮らした大事な思い出もあるの! この子にお友達だってできたし、大変でも頑張って努力した思い出だって、それに‥‥この子が幸せに過ごした思い出もあるの‥‥』
『全部ひっくるめて今のキエリができているのよ‥‥アタクシの愛するキエリが‥‥』
『それを全部消すだなんて、アタクシにはできないわ。ごめんなさいね』
ゼノは、きっぱりと断って、目を伏せて魔獣の王に謝りをいれた。
キエリは、ずっと本当は心の奥ではゼノに憎まれているのではと心配になっていたつっかえが、たった今取れてきれいに消えてなくなった。
(ゼノ‥‥わたしの傍でずっと見守ってくれていた。わたしの‥‥)
魔獣の王の瞳が暗く鈍く光った。
「ゼノ! 逃げて!」
「あああああああ!!」
ゼノが突然頭を抱え、悲痛な叫びをあげて悶え苦しみだした。
『ゼノ、君はもう僕の支配下なのだから、僕には逆らえないんだよ。早く消して』
「ゔ、ゔ、うぅああ!!」
緊張でからだがこわばって、やり取りを見ていたアーラがやっと動いて、慌ててゼノに駆け寄った。
『ゼノ! はやく王の言うとおりにして!』
ゼノは首を大きく横に振った。
「ゼノ! お願いもうやめてっゼノを苦しめないで!」
キエリの懇願を魔獣の王が聞くことはなく、ゼノに「命令」を続けている。
アーラもこれは危険だと、魔獣の王に懇願する。
『我らが王よ! ゼノはきっと‥‥』
『アーラ、君はここで何をしているの?』
魔獣の王の声は、聞いたものの心を凍り付かせるほど、冷たく、瞳は暗く、押しつぶされるような感覚に襲われた。
『外に目障りな連中がいる。殺せ』
アーラは額から冷や汗がどっと出て、顔が真っ青になった。
『かしこまりました‥‥』
アーラは、向かう前にちらりとゼノを見たが巨木の穴から外に飛び立って行ってしまった。
一瞬、魔獣の王の注意がアーラに向かったのを狙って、ゼノが魔法を放とうと構えたが、その前に巨木の床から鋭い枝が飛び出し、背中からゼノの胸を貫いた。
「ゼノ!!!」
キエリが悲しみの叫びをあげた時には、枝がずるりとゼノのからだから抜け、ゼノは床に倒れた。
キエリは、今までどこにこんな力があったのかと驚くほど強く魔獣の王を押しのけて、床に落ちた。
急いで這いずって、ゼノのもとにたどり着いた。
「いやだ‥‥ゼノ、大丈夫だよね? 治るよね?」
キエリは、ゼノの胸に手を添えて、なけなしの魔力をゼノに注ごうとしたが、キエリからは汗がつたうだけでゼノのからだはいっこうに治る気配がない。
「キエリ‥‥ダメ、みたい‥‥アタクシのからだの中にある、あいつの魔力が邪魔して治せそうにないわ‥‥」
ゼノのからだが黒く変色して、ゼノを蝕んでいくように広がっていく。
「いやだっ‥‥ゼノ、いやだよ‥‥」
キエリからは、大粒の涙がぼろぼろとゼノの顔に落ちていく。
「キエリ‥‥ごめんね‥‥アタクシ、アナタを幸せにしたかったの」
「最初は贖罪のつもりだったけど‥‥‥本当にアナタが愛おしく、なって‥‥」
「ダメよ! ゼノ諦めないで! 何か、何か方法がっ‥‥!」
「キエリ‥‥‥最後くらい、わかるわ‥‥」
「う‥‥うぅ‥‥ゼノ‥‥」
ゼノがゆっくりと腕を上げ、キエリの頬を撫でる。
「だいじょうぶ、アナタをひとりになんてさせない‥‥アタクシは‥‥けっこーしぶ、といんだから」
「うまれかわっても、どこにいても‥‥いつでもキエリのみかた、だからね」
キエリは、黒くなったゼノの手をそっと握りしめた。
「ゼノ‥‥ゼノ、わたし、ずっと言えてなかったことがあるの‥‥本当はずっと言っていいか迷ってて」
「な、に?」
「あなたは‥‥わたしにとって二人目のお母さんです。大好きです。お母さん‥‥」
ゼノは、最後に優しい笑顔を見せた。
黒色がゼノの全身を侵食し、ゼノのからだは砂のように崩れてしまった。
砂から黒く輝く美しい光がちらちらと溢れ出てキエリの周りに漂った。
「あ‥‥あぁ、ゼノ‥‥」
キエリは、心の一部を失ったような喪失感で、涙が止まらない。
親と呼べるひとを三度も失ってしまった。どれだけ涙を流しても足らないくらいだ。
キエリの後ろから足音がする。
足音は近づき、放心するキエリの隣で止まった。
『死んでしまったね‥‥』
自分でとどめをさしたにもかかわらず、悲しみを含んだ声で魔獣の王がぽつりと呟いた。
キエリの隣にかがみ、キエリの腕を掴んで正面を向かせた。
キエリは、悲しみに打ちひしがれて抵抗する様子もなく、涙を静かに流している。
『ゼノは結局僕の言うことを聞かずに僕を攻撃しようとまでした。僕を裏切ったんだ‥‥裏切りほど醜いものはないよね‥‥』
魔獣の王は手には、黒く小さな植物の種子を持っていた。
『でもね、ゼノはとても役に立ってくれたんだ‥‥これ、ゼノが人間を魔獣化させるための研究で生まれた副産物なんだ。からだの奥深くに埋め込めば、なんでもいうことを聞く人形の出来上がり‥‥本当はあんまり使いたくなかったけど』
魔獣の王がキエリの服の胸の部分まで首元から裂いて破る。
首にかけていたフェリクスからもらったネックレスが露になり、石が輝く。
『痛いけど、我慢してね』
魔獣の王が種子をキエリの胸にあてて、指を突き立てる。
キエリの胸から血がしたたり落ちる。
(‥‥ゼノが、死んじゃった‥‥また、守れなかった)
(わたしのせいで‥‥わたしのために?)
(そうだ‥‥ゼノは、わたしに幸せになってほしいって‥‥わたしの、しあわせ‥‥)
キエリの脳裏にフェリクスの顔が浮かび、キエリの涙が止まった。
「‥‥わたしは」
キエリの瞳に光が戻ってきた。
「わたしは、あなたになんて負けたりしない!」
キエリが拳に力を込めて、魔獣の王の顔を殴りつけると、先ほどまでなかったはずの魔力がキエリの手から光となって溢れ出た。
『ぐぬああああ!!』
魔獣の王の顔はまるで焼かれたようにただれて、顔を手で押さえながらキエリから離れた。
(魔力が急に戻ってきた!まさか‥‥)
「ゼノ‥‥」
魔獣の王から黒煙が立ち上り、顔を上げた時には再び整った顔が戻っていた。
瞳は怒りで燃える炎のように光を放つ。
『何故、魔力が戻ったぁ?』
キエリは、魔獣の王にかまわず、すぐにオオカミ型となって、アーラが飛び立った穴から外に脱出した。
『僕がそう簡単に逃がすと思うかい?』
魔獣の王も黒いオオカミのような姿になり、キエリの後を追った。




