同情
魔獣の王は、動けないキエリを横抱きに大切にするように抱えた。
(どうして、わたしは‥‥)
キエリは、自分の決心が揺らぎ、魔獣の王に協力してしまっていることに困惑しつつも、やめるという決断はできずにいた。
『楽にしててね。僕が魔力を勝手にもらうと疲れると思うから』
終始、この魔獣の王は低姿勢でキエリを大事に扱おうという態度を見せる。
もっと乱暴で傲慢な魔獣であればどんなに楽だったろう、とキエリは思わずにいられなかった。
『‥‥』
(‥‥一度だけよ。その後は、わたしがとどめを‥‥とどめを‥‥)
(このひとを‥‥殺す‥‥)
(このひとは、多くの人間を殺した‥‥でも、わたしだって、むしろここから出られなかったこのひとよりも、直接、魔獣も人間も殺したのかもしれない‥‥‥わたしなんかがこのひとを責める資格があるのだろうか)
『‥‥‥』
『あの、ねぇ、大丈夫?』
キエリに心配そうに声をかけたのは、もちろん魔獣の王だったが、その声の優しさから気を張っていたはずなのに、キエリは情けない顔を見せてしまった。
『なんでも、ない』
『でも、顔色悪いよ? もしかして、連れてこられるときに強引なことされた?‥‥アーラは、僕のこととなると、手段を択ばない節があるから‥‥本当にごめん』
『連れて来るって‥‥あんなの誘拐よ』
『ゔ‥‥そ、うだよね‥‥返す言葉がないよ‥‥』
魔獣の王は肩をすくめて、耳がしょぼくれる。
『‥‥はやく、外に出るなら出れば‥‥』
キエリは、ごく普通に会話してしまったことに気付いて、それ以上は口をつぐまなくては、と顔をそむけた。
『う、うん。外に出られると思ったら、緊張しちゃって‥‥ふぅー‥‥よし!』
少し頼りなさげに話していた魔獣の王は、覚悟を決めたように部屋の上を見上げる。
花に包まれていた部屋の天井がゆっくりとうごめき、吹き抜けの穴が出来上がった。
穴の向こうにはすがすがしい青い空が見える。
『わ‥‥ぁ‥‥こんなに穴を広げて空もあんまり見てなかったんだけど、人間の世界の空はやっぱり広いね! 明るいね! 青いね!』
魔獣の王は、子供のように目を輝かせて空を見上げる。
キエリは、じっとその顔を見てしまっていた。
『上に登ってみよう!』
魔獣の王の顔を見ていたキエリに、彼のぱっとした笑顔が直面する。
彼が笑顔になればなるほど、キエリの心は締め付けられて、苦しさが増す。
魔獣の王の足元が盛り上がり、木の巨大な枝が床だった部分から現れて、キエリたちを頭上の穴へと押し上げた。
穴から外に出れば、外の景色が一望できた。
外の空気は清々しく、爽やかな風がキエリたちの頬を優しく撫でる。
ただ、キエリの知っているウルブスの活気ある街並みはそこにはもうなかった。
建物は草木に覆われて、道々には今キエリたちのいる巨木の根がはびこっていた。
キエリは、唇を噛みしめ、苦悶に満ちた表情を浮かべながら、街を見渡す。
(そんな‥‥こんなに変わってしまっていただなんて‥‥街の人たちは、無事なの?)
しかし、一方魔獣の王は、外の様子を見て放心していて、きょろきょろと辺りを見渡すことに忙しいようだった。
そして、時折、息をゆっくり吸っては吐くを繰り返している。
キエリは、魔獣の王に魔力を吸い取られているのか少しからだが重くなるのを感じた。
『すごい‥‥苦しくない! 苦しくないよ! それに、広い! こんなにも人間の世界は広いんだね!』
魔獣の王は、地平線の先を見つめる。
『そうか、人間の世界はこんなにも広くて、明るくて、美しいのか‥‥』
キエリは、魔獣の王の楽観的で他人事のような物言いにさすがに腹が立った。
どうして、破壊された街が見えて美しいなどと言えるのだろうか。
『よくそんなことが言えるわね。ここは、人間が住んでいた街よ。本当なら、たくさんの人間がみんな穏やかに暮らしていたというのに、それを壊したのよ!』
(そうよ、今すぐこのひとから離れればいいんだわ。そうすれば、彼は生きられなくなる。それか、魔力は確かに削られているけど、オオカミ型になれるだけは回復してきた。一気に彼の喉元に噛みつけばいい‥‥その、はずなのに‥‥)
しかし、キエリの考えを読んだかのように魔獣の王は、座り込んで抱えているキエリをがっちりと抱き込んだ。
キエリは、彼の胸にすっぽりと収まってしまう。
フェリクス以外にこんなことをされたことがなかったキエリは、驚きでからだが固まってしまった。
『ごめん‥‥』
力のない、か細い声だった。
『嬉しかったとはいえ、君のことを考えていない発言だった‥‥ごめん』
魔獣の王は、そっとキエリから離れ、両肩を掴んでじっとキエリの瞳を見つめる。
やはり、彼の紅色の瞳は美しく輝いていて、誰しもを魅了する力があるようだった。
『君は、人間を愛しているというのに‥‥僕が多くの人間を苦しめて、殺してしまった。そのことは、理解しているよ』
その言葉に、キエリの迷いは頂点に達してしまった。
『理解、している? どうしてよ? どうして、こんなことができたの? どうして、多くの人間を殺せたのよ!』
『どうして‥‥あなたは悪い魔獣のはずなのに、すぐに謝るし、わたしには全く乱暴しないし、少し子供っぽいし、情けないところもあるし! なんなのよ!?』
『どうして‥‥あなたは残酷なひとのはずなのに、もっと悪そうであってくれなかったのよ‥‥』
キエリは、ついに心にたまっていたことを言ってしまった。
自分で吐き出しておいて、しまったという後悔がキエリを俯かせた。
魔獣の王の人柄が自身の印象と実際にやってきたこととで随分と乖離していることがキエリをどうしようもなく混乱させた。
キエリの怒涛の批判を言われた当の本人は、ぽかんとして聞いていた。
しかし、すぐにキエリから顔を背けて遠くを見つめる。
『‥‥そう、だね‥‥僕は、残酷だよ‥‥目的のために、多くの人間を殺し、仲間たちを戦いに送った』
そう、寂しそうにぽつりと呟くと、魔獣の王はキエリをそっと置いて、ゆっくりと離れていった。
キエリの魔力がなければ死ぬと言っていた魔獣の王にとってその行動は、自殺行為に等しい。
『なっ、どういうつもり!? あなた、死ぬつもり!?』
『大丈夫、君からもらった分があるから、しばらくは死なない』
『君は、僕が報いを受けるべきだと思っているのだろう? であれば、このまま放っておけばいいよ』
『アーラかゼノに言って、君の愛する人間たちのところに戻してもらうといいよ。僕は、このままここに居よう』
『‥‥っ‥‥』
キエリは、もう自由に動くことができる。
だが、その場から動けなかった。
やっとキエリが動き出した時には、魔獣の王の隣に座っていた。
おやまずわりをして、顔を膝にうずめて魔獣の王に片手だけ差し出した。
『あなたが死ぬのは、今じゃなくてもいい‥‥』
魔獣の王は、キエリが自ら差し出してきたことに驚いたのか、手を取るのを躊躇していたようだったが、静かにキエリの掌に自身のを重ね、指を絡ませてぎゅっと固く握った。
(こんなの、フェリクスたちへの裏切りだ‥‥‥少し、ほんの少しだけ、このひとの命を延ばしただけ‥‥)
『ねぇ、本当に君は優しいんだね。こんな僕に情けをかけてくれるだなんて』
『‥‥‥気まぐれだから、本気にしないで』
『あの、さ、こんな状況で言うのもなんだけど、本当に僕の番にはなってくれないかな?』
『それは無理』
『きっぱりあっさり、振られたな‥‥』
『‥‥』
『君から、男の人の匂いがする。その人が君の番?』
四六時中フェリクスはキエリの傍にいて、人間にはわからないだろうが、魔獣には、はっきりとわかるぐらいフェリクスの匂いがキエリにしみついていた。
『そう、わたしの大切な人。あの人以外はあり得ないもの』
『君の父親の眼を食べたとしても?』
キエリは、急に心臓を鷲掴みされたかのようだった。
ゼノは随分と魔獣の王を信頼しているようであったから、彼女が話したのは不思議ではない。
しかし、キエリにとって急にそんな話をされるとは考えておらず、硬直してしまった。
『そう、よ、わたしは彼がお父さんの眼を食べていても彼のことが好きな気持ちは変わらなかった』
言葉の初めはこわばってうまく言えなかったが、フェリクスが好きだとしっかりと伝えた。
『もう、それは変えられないこと、過去のことだから‥‥それに、あなたには関係ない』
キエリの決意めいた気持ちを聞いて、魔獣の王は悲しそうに目を伏せた。
『‥‥もし、その人間に出会わなかったとしたら? 君は、僕を選んでくれたかな?』
魔獣の王の質問がとっぴで、キエリは眉を顰める。
『出会わなかったら?‥‥そんなの不毛な質問よ』
『答えて!』
魔獣の王は、今までにないくらい強くキエリに言い放ったせいで、キエリは驚いて肩が跳ねた。
彼の瞳が紅く暗く揺らめき、キエリの手を握っている手に力が込められる。
『そんなもしもはないのだから、考えたってしょうがないじゃない‥‥答えは、わからないよ』
『そっか‥‥そうか‥‥』
キエリの答えを聞いた途端になにか考え込んでいるのか、黙りこくってしまった。
キエリに詰め寄るとき、一瞬彼からゾッとするほど冷たくなるような雰囲気が漏れ出た気がした。
黙りこくってしまった魔獣の王をどうすることもできなくなったキエリは、これからのことに考えを向けた。
(これから、どうしよう? フェリクスたちを待つ?)
(いや、すぐにでも帰りたい‥‥フェリクスのところに‥‥でも、このひとをどうすればいいのだろう? このまま‥‥)
(?‥‥わたしはこのひとをどうにかしたいの? まさか、助けたいなんて‥‥それは、ない。絶対ない)
キエリがじんわりと魔獣の王の命の最後を必ずやり遂げなければならないと思いだした頃、上空に何かの気配が感じられた。
「?‥‥なに?」
キエリが見上げた方向には、何か黒い影が青い空にぽつりと見えた。
魔獣の王もそれを視界に入れたらしく、立ち上がって目を細める。
『君のお迎えだね‥‥』
(まさか!?)
その黒い影はどんどんキエリたちに近づいてきた。
(フェリクス!?)




