竜、覚醒す・3
頭がおかしくなりそうだ。
(ミアは一応、命綱みたいなのを使って降りてって…………クラインさん、そのまま飛び降りて)
王女の執務室は三階にある。
一階でも二階でもない。大きな窓はここから王都を眺めるために、わざわざ巨大なガラスを入れたのかと納得していたものだ。それが、まさか脱出用の非常口扱いになると誰が想定しただろう。
思考が止まりかけている柚子を見やり、ストラルドが息を吐いた。
「休憩にしましょうか」
「や、でも! あれっ、ここ! 三階、落ちっ」
「言わんとしているところも、あなたが混乱しているのもよく分かります」
「ストラルドさん!! ミアが、クラインさんがっ」
「ユーコ」
優しい『猫撫で声』に、ぞわっと悪寒が走る。
「落ち着いてください。二人とも無事ですから。城内を駆け回られるよりは迷惑度合も低いので、見なかったことにしてもらえますか」
とりあえず押し黙ったが、はいそうですかと頷けるわけがない。
シクリア人は常人を超えたスーパーマンなのかと思った。しかし侍女が、ここから飛び降り自殺をしたばかりだ。誰でもそうだ、というわけではないのかもしれない。三階から飛び降りて、ほとんど休む間もなく駆けていった。もう耳を澄ませても、言い合う声は聞こえない。
コンコンとノックの音がした。
「失礼いたします。紅茶をお持ち…………あら?」
「カーラ、良い頃合です。ユーコ、こちらへ」
台車と共に運ばれてきた良い薫りが、心をゆっくりとほぐしていくようだ。
またですか、という嘆息は聞かなかったことにする。
いつの間にかストラルドが目の前に来ていて、手を差し伸べてくれた。まだぼーっとしている柚子は誘われるままに手を乗せ、大人しくエスコートされていく。これも王女の作法として、みっちり叩き込まれた成果だ。
真新しい椅子に座ると、テーブルにティーセットが用意される。
これもいつかの出来事を思い起こさせて、温かな湯気を見つめるばかりになってしまった。カーラは入浴の手伝いまでしてくれた侍女だ。疑ってはいないが、信じているとはっきり言えない。いや、信じていないわけではない。
(これは、毒入り紅茶じゃない)
大丈夫。あれからも、何度かこうして茶を飲んだではないか。
「では、失礼いたしますわ」
カーラが一礼をし、そのまま下がっていく。
角砂糖がぽちゃんと一粒、ティーカップの中へ吸い込まれていった。顔を上げると、ストラルドが向かい側に座るところだ。無糖派の彼は、そのままカップの持ち手をゆっくり持ち上げる。視線が追いかけていくのを気付いていて、口元には柔らかな微笑。
「美味しいですよ」
しっかりと嚥下してから、そう言った。
「…………ありがとう」
「いいえ」
短い言葉に含まれた気遣いに励まされ、柚子も紅茶を含んだ。
「んぐ」
「砂糖はとうに溶けていますので、軽く混ぜてからの方が全体的に味が均一になりますよ。いわずもがな、でしたか」
「う、うっかりしていた……だけです」
なるべく音を立てないように置いて、スプーンでかき混ぜる。
紅茶は、コーヒーのように苦くない。そういう意味では飲みやすいといえるが、柚子は砂糖を入れないと飲めないタイプだった。最初の頃は三個くらい入れていたのだ。それでは紅茶本来の風味が大いに損なわれると怒られ、徐々に減らすはめになった。
しかし角砂糖1個が最低ラインだ。
スプーンを置き、改めて紅茶を飲んでみる。今度は警戒心もあって、少し含んだだけだったが。ほのかな甘みと紅茶の香りが心をほっこりさせる。
(ミルクがあれば最高なんだけど)
農耕地のないシクリアで、品質の変わりやすい生ものは高級品だ。
さすがに王城というのもあって、ミルクはある。だが血筋はともかく、庶民育ちの柚子はなかなか手が出せなかった。値段を聞くのも怖い。
「そういえば」
「はい?」
「な、なんでも?!」
不覚にも、声が裏返った。
何でもないのが嘘とバレてしまったのに、ストラルドは特に追求してこない。不思議に思って顔色を窺えば、すっかり見慣れてしまった美貌を再認識することになった。
整った顔立ちで、優しげな笑みが似合っていて、細身の眼鏡キャラ。
丁寧な物言いがデフォルトだが、気遣いと毒舌が紙一重という対応に困る性格の持ち主でもある。西洋風の外見はともかくとしても、全世界共通で「彼氏にしたい男」にノミネートされそうだ。冷たくされても、その後で優しくされたら落ちると聞いたことがある。
どこに落ちるのかは、言及しない。
(その美青年さんと二人っきりなわけですよ)
こんなことを考えられるくらいには、余裕が出てきた。
柚子は焼き菓子に手を伸ばし、かりっと齧る。
聞いたところによると、ふくらし粉やベーキングパウダーといったものは存在しないらしい。小麦粉はもちろん、乳製品のほとんどが輸入品だ。食料のほとんどを外国に頼っている現状なので、物価が下がるはずもない。
当然ながら、庶民の暮らしは困窮しているらしい。
改めて考えてみると、シクリア王国は交易主体で成り立っている。職人たちが作る品物を外国へ売り、代わりに食料品を輸入する。家具や道具類はタダも同然なのに、そんなもんで腹が膨れるかといった感じだろうか。
よくもまあ、今まで国として存続できたものである。
「あなたは…………よく分からない人です」
「へ?」
いきなり何を言いだすのかと思えば。
きょとんとして首を傾げる柚子に、カップを手にしたストラルドが微笑む。
「感情がほとんどないのかと思えば、そうではない。そこそこ考える頭もあるのに後先を考えない、突発的な行動に出る。まあ、この辺は王女に影響されたのかもしれませんね。……ですが。あなたの場合は何に怒り、何に悲しみ、どんなことで喜ぶのかが予測つかない」
「えっと」
「…………」
「それって、重要なことですか」
「私にとっては」
分からないことがある、というのは落ち着かないものです。
自嘲しながらそう言われて、柚子は返す言葉を見失ってしまった。この男は、柚子のことを研究対象か何かだと認識しているのだろうか。確かにこの世界の人間ではない――いわゆる異世界人だ――から、理解できないことは多いだろう。カルチャーショックだか、ギャップがありすぎるのだか知らないが、かなり最初の頃に言われた。
柚子と、柚子の育った環境に興味がある、と。
(形成した環境がどうの、とか言ってた)
比較的常識人である部分が大きいので、完全に忘れ去るところだった。
「ストラルドさんって」
「何ですか」
「面倒な性格をしていますよね」
「……それは、褒め言葉として受け取っておきましょうか」
にっこりと彼は微笑み、ぎくりと柚子は顔を引きつらせた。
意図せずして地雷か何かを踏んだらしい。とてつもなく完璧な笑顔を浮かべているのだが、背後にブリザードが吹き荒れている。暗雲が立ち込めているくらいなら、まだ可愛いものだ。
こういう時に限って、ミリエランダとクラインがいない。
「ふ、二人とも、どこを走ってるんでしょうね!」
「ついでに視察をしていると思いますよ。夕刻には戻ってくるでしょう」
まだ昼飯前ですが。
そうツッコミたいのをなんとか堪えた。執務室の応急処置は終わったので、カーラたちも退室している。既に王女の脱走は城中に知れているのか、新たな書類を持った文官もやってこない。悲しくなるほど、二人っきりだ。
休憩が終われば、また文献と睨めっこすることになるだろう。
(無理、ぜったい無理。こんな空気で、集中できないよー)
ストラルドも多くの仕事を抱えているから、休憩の後は書類の処理を再開するはずだ。今日は勉強できそうなものを持ってきていないので、柚子が部屋の隅で自習するという選択も最初からない。
ぐびぐびと紅茶を一気に干した。
「ストラルドさん」
「どうしました?」
「西の塔へ行ってきます」
「分かりました、準備をしましょう」
ぽかんとする柚子の前からいなくなり、扉の方で何やら話し声がする。
今日は護衛が二人いたはずだ。守るべき対象が脱走し、もう一人が猛スピードで追いかけていったから、彼らに護衛は不要と伝えているのだろうか。
「って、一人くらい置いてってください!」
慌てて立ち上がれば、やはり神聖騎士と話していたらしいストラルドが振り返る。
「ユーコ、わたしでは不足ですか。これでも多少なりと、武芸の嗜みはあるつもりですが」
「ストラルドさんにはお仕事がありますよね。こんなに山盛りなんですよ、少しでも片づけないと、他の皆さんも困ると思います」
「ユーコ様、なんとお優しいっ」
「あ、エンゲルハイトさん」
いたんだ、と呟いたのは聞こえなかったらしい。何よりである。
王女の身代わりどころか、素性も何もかも騙していたのが分かった後も、エンゲルハイトは神聖騎士として護衛を務めてくれている。プライム公認だそうなので、こちらにも断る理由はなかった。
「ミアの護衛もしなきゃならないのに、わたしのことも気にしてくれて…………ありがとうございます。とっても頼もしいです」
「ユーコ様……っ」
「は、はい」
「おれ、この命を賭けてお守りするッス! どうぞご安心ください」
「駄目ですよ、命は大事にしてください。わたしなんかのために、そこまでする必要わきゃ?!」
ぼすんと何かを被せられ、反射的に首をすくめた。
「な、何するんで…………あ、カツラ? 持ってきてくれたんですね」
「塔に向かうのなら、必要でしょう」
「や、ちょ……! 自分でできます、からっ」
強引にカツラの中に黒髪を入れようとするストラルドから逃れようと、柚子は何とか体をねじる。ヒールをはいていないので、頭一つ分の身長差はかなりのハンデだ。
「ケストナ―執政官、ユーコ様が嫌がっているッス」
「私は王女殿下のご命令に従っているだけですよ。彼女の助けになるようにと」
「…………」
「…………」
(なに、この沈黙)
柚子はカツラの中に髪を押し込むために、下を向いている。
そうでなくても身長が高い彼らとは視線が合わない。状況を把握するには顔を上げるのが手っ取り早いと分かっていたが、知らない方が幸せでいられるような気がした。




