この世で一番長い夜・1
扉がぐずぐずと崩れていく様を、初めて見た。
木製ではなく、金属製だったはずだ。それが真っ赤になったのだから、とんでもない高熱を帯びたということになる。今は焼け焦げたように真っ黒で、無数の欠片になって床へ積もる。部屋に中にいた全員が、その光景を唖然として見つめた。
「魔法……つか、い」
祖母の口癖が甦る。
どこか楽しげに話してくれた内容はただ「魔法使いなのよ」と、それだけだったが。何も言われなくたって、この現象が科学的なものではないと分かる。金属を溶かせるだけの高威力を持つ武器が存在するのなら、話は別だ。
「ご無事ですか」
そう言って魔法使いが膝をついた時、柚子はマルセルにくっつかれたままだった。
王子の迎えだと考えても、無理はない。廊下で騒いでいた声は、化け物がどうのと話していたのだ。神聖騎士の二人も同じように考えたらしく、すぐに崩れた姿勢を立て直していた。剣は抜かないものの、新たな存在に対して警戒している。
「お迎えに上がりました、ユーコ様」
「人違いです」
ほぼ反射的に、そんな台詞が滑り出る。
頭の中にあったのは「格好が魔法使いっぽくない」という落胆にも似た感想だ。魔法使いならば、裾の長いずるずるしたローブを羽織っているとか、陰気そうな眼鏡だとか、鬱陶しい髪型辺りが相応しいと思うのに。
体付きからして、魔法使いっぽくない。
時代劇の殿様が出陣時に着ていそうな、陣羽織姿だ。
これでも武装には違いないのか。ごてごてと飾り立てていないが、甲冑の簡易版みたいな装備があちこちに見えなくもない。銀と赤を基調にした神聖騎士に比べれば、かなり地味だ。全体的に黒で統一された上に、アクセントが金茶だ。渋すぎる。
(顔も、渋い)
アンティガ将軍と同じ年くらいかもしれない。
飴色の髪と同じ髭を生やして、むさくるしさも似ている。顔は全然違うから、血縁者ではないのだろう。ユリウスたちもぽかんとしているから、彼らの知り合いでもない。
いや、驚いているのは魔法使いのトンデモ発言か。
「冗談を言っている場合ではないのですがね」
「ミリィは、ミリィだよ。そんな名前じゃない」
「マルセル様、貴方にも来てもらわなければなりません。まあ、ユーコ様とは別行動をしていただくことになりますが」
「嫌だっ」
「通じないと分かっている上での悪あがき。時間稼ぎでもしているおつもりか?」
しっかりと柚子に抱きついたマルセルが、びくりと体を震わせた。
「そこの神聖騎士二人、護衛ご苦労。後は我ら、近衛騎士団が引き受ける。ああ、この一帯は鎮圧済みだ。安心しろ」
「近衛騎士だって!?」
「しかし、アレクセル王は既に……」
「新たな王はじきに決断を下される。今、こうして動いているのは亡き先王陛下のご意向によるもの。というわけで、ユーコ様」
「人違いだって、言ってるでしょう」
「やれやれ、頑固なお姫様だ」
何が起きているのか、さっぱりだった。
魔法使いが近衛騎士で、近衛騎士は王命で動いていると言う。しかも神聖騎士に対して対等以上の態度を取り、マルセルもどこかへ連れていくつもりだ。今まで名前が挙がらなかったということは、王女派でも王子派でもない。
中立。
そこに至って、アレクセルの顔が浮かんだ。二つの派閥が対立していても、国王として何らかの明確な決断を下すことなく暗殺された。彼は、こうなることを予見していたのだろうか。そして近衛騎士は、どこで柚子の名前を知ったのか。
(って、ミアたちが普通に呼んでたっけ……)
壁に耳あり、障子に目あり。
彼らに気付かれずに潜むことができれば、名を知ることも容易だ。それでも柚子に対する態度がやけに恭しい。まるで王族に対するものと同じではないか。
今まで『お姫様』とは無縁の生活を送ってきたのに。
「ユーコ様、素直に言うこと聞いてくれませんかね。クーデター起こしてる馬鹿どもをうちで引き受けている間に、あんたたちみたいな重要人物は確保しときたいんですよ」
「だったら、何でおれたちに連絡が来ない?」
「知るかそんなもん。こっちはたったの10人だぞ。手が回るかボケ」
「10人!?」
「あー、うるせぇうるせぇ。キャンキャンと犬が吠えやがる」
どんどん口が悪くなっていく近衛騎士。
眉間にくっきりシワができて、まるで寝起きの熊になっている。
「誰が犬だ、誰が!」
「エンゲルハイト、落ち着け。この人が信用できるかという点では、僕も同意見だけど……」
「あーあー、何でこうもお貴族様ってのは頭がカタイんだ。やってらんねぇぞ」
「貴族だ貴族じゃないだと拘るのは、狭量の証拠だよね」
「うっせぇ! いてこますぞ、ガキ」
「もう止めてください。こんな所で喧嘩したって、何にもなりませんから」
「ま、それもそうだな」
あっさりと矛を収めた近衛騎士は、柚子を見やった。
手が伸びてきたと思った次の瞬間には、肩へ担がれている。まさか同じ日のうちに、同じ扱いを受けるとは思わなかった。今度は暴れるよりも、がっくりと脱力する。
「ミリィを放せ! 命令だぞ」
「申し訳ございませんね、マルセル坊ちゃん。あ、まだ王子か。マルセル王子、この方は丁重に扱えって厳命下ってるんで」
「どこが丁重な扱いなんですか……」
「あんたが歩くよりも、こうやって歩く方が早ぇんですよ」
「おい、てめえ」
エンゲルハイトが低い声を出した。
「今、なんつった? 『まだ』王子って言ったか」
「あ」
「あ」
「げ……」
近衛騎士の背中しか見えない柚子には分からないが、ユリウスも気付いたらしい。マルセルはどうしているのか、声が聞こえない。
部屋の中に、微妙な沈黙が訪れた。
「あー、面倒臭ぇ。そんじゃあ、全員で来やがれ。おう、若造どもは王子様をエスコートしてやんな。あくまでも『王子』として丁重にな、って言うまでもねぇか」
「あの、あ…………騎士のおじさん」
名前を知らないので適当に呼ぶと、近衛騎士はぶはっと吹き出した。
「いいですな、それ。今後もそれで通してくだ、くださいませ? 慣れねぇ言葉を使うと、舌噛みそうだぜ」
「別に無理して敬語使わなくてもいいですよ。わたしはただの一般じ、庶民ですから」
「あー、通じる通じる。問題ねぇよ、ノープロブレム」
「濃風呂部?」
「おお、わんこには難しかったか?」
「くっそ、てめ! ミリィさ…………ええと、何でもいいっ。今すぐその方を下ろせ。そんで、おれと勝負しやがれ!」
「コテンパンにのされてぇなら、構わんがよ。わしぁ忙しい。後でな」
「うぐぐっ」
妙な一行だ。
扉はなくなったので、残骸を跨いで外に出る。近衛騎士が先導し、神聖騎士の二人がマルセルを伴なって、後をついてきた。ハゲ狸を見た時と同じ要領で、柚子はちょっとだけ顔を上げてみる。
「マルセル様……」
俯いた子供から、返事はなかった。
代わりにユリウスが視線を合わせ、気遣うような笑みをくれる。柚子にとっても何がなんだか分からない事態の連続だが、彼らも今の状況は把握しきれていない。特にマルセルは、王子であることすらも不明瞭になってしまった。
(それに、嘘の名前を使っていたことも…………バレちゃった)
なりゆきでそうなったとはいえ、マルセルを騙していたことになる。
「ごめんなさい」
かろうじて、それだけが言えた。
するとマルセルがキッと睨み、いきなり頭を掴んできたのだ。強引に引っ張られても痛いと思えなかったのは、彼が掴んだ髪はカツラだったから。栗色が抜け落ちた後に、この世界へ来てから少しだけ伸びた黒髪が姿を現した。
「…………な、ん」
「全部ウソだったくせに!」
「そう、ですね」
柚子は目に手をやった。
ぽろり、ぽろりとコンタクトレンズが落ちていく。拾い損ねた二つともが、マルセルの足で踏み割られていった。小さな音は、他の足音に紛れて耳まで届かない。
「もう、必要ありませんよね」
「ああ」
自嘲気味に笑った柚子に応えたのは、近衛騎士だった。




