第2話ー美大・課題作品展にてー
雲母坂真央から悪夢の話を聞いて一ヶ月後。
名胡桃ルミは描きあげた〝地獄〟に向き直る。
例えば、南国植物が作る木漏れ日のきらめく温室。
例えば、紫色の絨毯が敷かれた白い手すりの螺旋階段。
例えば、石膏像が立ち並ぶ白亜の美術館。
例えば、ガラスとコンクリートの建築と古めかしい書物がコントラストを作る図書館——……。
美大にあるアトリエの一画を丸々使って、風景を描いたパネルを99枚並べ、最後に青空と見渡す限りの白百合の絵を白い壁に設営する。
午後からスタートする課題作品展にはなんとか間に合いそうだ。
「名胡桃。そっち終わった?」
柱の影から長身がぬっと顔を出した。切り揃えられた黒髪が顎のあたりでさらさら揺れる。
「終わった終わった。安楽は? なんか手伝うことある?」
「こっちも終わったよ。……しかし、名胡桃の絵、壮観だね」
安楽百枝は名胡桃の作品を見上げ、縁なしメガネの奥で感心するように目を細めた。
名胡桃は素直に賛辞を受け止めて胸を張る。
「ありがと。頑張った甲斐があるわ」
誰もいない風景と建築を描いた100枚の絵——これが名胡桃の思う〝地獄〟だった。
安楽のいうとおり、まあまあの大作である。
没頭のあまり友人らとの連絡が疎かになるくらいには集中して描き上げた代物だ。
感慨に浸る名胡桃を見て、安楽は爽やかに笑った。
「じゃ、またシフト交代のときにね」
手を振って颯爽と会場を後にする安楽の背中を見送ったあと、名胡桃はうっかりしていたことに気づく。
安楽には尋ねたいことがあったのだ。
名胡桃は〝地獄〟をモチーフに、雲母坂の悪夢から着想して作品を作った。
せっかくだから雲母坂にも展示を見に来てほしいと思っているのだが、ここ数日、連絡が取れないのだ。
制作に集中している間はお互い連絡がつかなくなることも多い。
いつものことだとは思いつつ、報連相にうるさめの安楽経由で連絡を取れないか尋ねたかったのだが。
——ま、シフト交代のときに訊けばいいか。
そう結論づけて、名胡桃はパイプ椅子に腰掛けた。
課題作品の展示では、学生が展示室の監視員と受付を担当する。
だが名胡桃は、室内を見回す代わりにカーゴパンツのポケットからスマホを取り出し、メモ機能を呼び出して文字を打ち込みはじめた。
展示最終日には講評会が控えているので、それまでに作品についてプレゼン内容を固める必要があった。——いま考えてしまおうというわけである。
監視員としては不真面目かもしれないが、どうせ平日なんだからそんなに客が来るわけないとタカを括っていたのだ。
しかし。
「美しいですね」
声をかけられてパッと名胡桃は顔を上げる。
名胡桃の作品の前に、黒い傘を携えたスーツ姿の男が立っていた。どう見ても客である。
とりあえず会釈しつつ、名胡桃は疑問を覚える。
いつの間にか現れた客は、まさしく黒尽くめだった。靴、傘、ネクタイなど、身につけている小物の全てがオールブラックだ。
——というか、こいつが着てるの喪服だな。
喪服の男は熱心に名胡桃の作品を眺めていた。
葬式と同じ日に絵画鑑賞とは変わっている。
ゴッホやフェルメールなど、巨匠の展覧会ならまだしも、大学の課題作品展に来るのはかなりの変人だ。
「あなたがこの絵の作者ですか?」
思い切り訝しんでいる最中に話しかけられ、名胡桃はとっさに「はい。そうです」と素直に答えた。
「どうしてこれらの絵に『地獄』というタイトルをつけたのか、伺っても?」
聞かれて当然の疑問だとは思う。
名胡桃はメモアプリに目を落として、顔を上げる。
客への説明を講評プレゼンの練習にするのもいいだろう。
パイプ椅子から立ち上がり、100枚の地獄に目を向けた。
「まず、今回の展示のテーマは誰もが知る古典名作を下敷きにして作品を作ることなんです。あたしは『地獄草紙』を選びました」
作品を作るにあたり、名胡桃は『地獄草紙』に限らず地獄や死をモチーフにした作品について調べた。
「地獄を描いた作品はどれも『拷問テーマパークでウォーリーを探せ!』みたいだな」という第一印象は変わらなかった。
けれど、細部に目を向けると違う見方ができるとも思った。
「『地獄草紙』に描かれているひとりひとりの状況を見ると、しっかりえげつない拷問を受けているんですよ」
全体に目を向けて〝地獄〟と括ってしまうと、ひとりひとりの苦しみに目がいかない。
これが『地獄草紙』の特徴なのだと名胡桃は解釈した。
「だから、あたしの作品も近くでじっくり鑑賞しないと意味がわからない絵にしたかったんです」
名胡桃の作品は遠目で見れば建築物や風景を切り取った作品に見える。しかし、近寄って観察すると、文字が書いてあることに気づくだろう。
「……たしかに『蜂の毒でのたうちまわる』『階段から永遠に転げ落ち続ける』などの文言は近くで見ないと気づきませんね。こちらは描かれたロケーションで受けたくない罰、ということでしょうか?」
喪服の男は口元に指を当てて言った。どうやら名胡桃の意図を汲んでくれていたようだ。
うなずいた名胡桃に、喪服の男はいかにもな営業スマイルを浮かべた。
「面白いですね。しかし、どれも一般的な地獄のイメージとはかけ離れているように思えますが」
「……過去に描かれた地獄のイメージがどれも大人数なのがあんまりピンと来なかったんです。大勢で拷問を受けるような状況だと『あいつよりマシだ』とか、他人と比較して気を紛らわせそうじゃないですか? 待ち時間とかありそうだし。いっそ他に誰もいないほうが、罰に集中しちゃって嫌だろうなと思うんです」
名胡桃の返答に、なぜだか喪服の男は真顔になった。
内心不思議に思いつつ、名胡桃は着想元である雲母坂の夢を思い出しながら、続ける。
「たとえば、景色ばかりがきれいな場所で、死ぬほど苦しんでのたうち回っているのに、誰にも気づいてもらえない。そもそも他人はどこにもいない。ひたすら罰を受け続けて終わりがない。……あたしはそういう地獄が嫌だし、あってもいいかなと思って」
「なるほど」
喪服の男は真顔のまま名胡桃を一瞥し、100枚の地獄に目を向けた。
「素晴らしい」
口角をあげ、賞賛の言葉を述べた喪服の男の声が、一段低くなった。
「白百合は無数の手のように見えます」
「え?」
「救いを求めて天へと無様に縋り付く、無数の手のようです」
喪服の男は傘の中ほどを掴んで、青空と白百合を描いた一枚を持ち手の部分で指した。
言われてみると、白く大きな花弁が手のひらのように見えるかもしれない。だが、そうなるとかなり悍ましい風景なのではないか。
名胡桃は眉を寄せる。
「気づいた瞬間、そうとしか見えなくなるものがありますよね」
喪服の男は傘の持ち手を再び掴む。男が傘を扱う所作はやたらに優雅なのだが、どことなく不穏な感じがして、名胡桃は警戒心から身構えた。
「逆に、気づかなければ何も見えないままのこともあるでしょう。確実に事態が進行していたとしても、目をつむり、耳を塞ぎ、気にも留めないなら無いのと同じだと解釈する方もいましてね。あったことは決してなかったことにはならないのに、ですよ」
やれやれ、と喪服の男は首を横に振った。
「雲母坂真央様はまさしくその典型のような方でした」
名胡桃はギョッとして男の顔を見る。
「晴眼でありながら■■■。健聴でありながら□□□のようで」
知らない男から友だちのフルネームが出てきただけでも驚きである。
しかも聞き間違いでないのなら、喪服の男はものすごく丁寧な口調で一発アウトの差別用語を使い、雲母坂を罵った。
そして、いまになって名胡桃は気づく。
——こいつ、雲母坂が見た夢に出てきた男と、特徴が似てる……。
「雲母坂様は人を陥れることが好きだったのです」
喪服の男はにこやかに笑いながら「思い当たる節はございませんか?」と首をかしげた。
友だちを悪く言われて気分がいい、わけがない。
名胡桃は湧き上がった嫌悪感にぐっと眉を寄せ、口を開く。
「は? なんであんたに、そんな……」
名胡桃は反論しようと雲母坂のこれまでの言動を振り返り、——途中で何も言えなくなってしまった。
言葉を失った名胡桃に、喪服の男は〝同情〟のお手本のような表情を顔に貼り付けてみせる。
「世の中にはそういう人間がいるのです。特に理由なく、他人——中でも親しい相手をおもちゃにすることを好む人間が」
喪服の男は冷ややかに「あなたは気づいておられず、気にも留めていないようでしたが」と付け加えた。
明らかに名胡桃を見下した態度を匂わせたのは一瞬のことで、喪服の男は話を戻す。
「かつて雲母坂様がおもちゃにした人間の中には取り返しがつかないところまで追い詰められた方もいましてね。雲母坂様を『地獄に落としてやる』と憎悪して、常識では考えられないような手順を踏んだわけです」
喪服の男の表情はずっとわざとらしい。
「心痛に眉を下げています」という顔を作っているが、これが完全に上っ面なのがわかる。
「ただ、残念ながら雲母坂様のような人間は、自分の行いが罪悪だということに、なかなか理解が及ばないご様子で」
時折漏れる、心底からの軽蔑のほうは間違いなく本音だとも、わかる。
「となると、こちらは何度も繰り返し理解を求めなくはなりません。罰を受ける理由に思い当たり、自らの行いを心の底から後悔したとき、初めて地獄が機能するので」
話の展開が読めず困惑する名胡桃の顔を見て、なぜだか喪服の男は機嫌を直したかのように明るく言った。
「しかし、骨を折った甲斐はありました」
青空と白百合を描いた一枚を、喪服の男は再び傘の柄で指し示す。
「ようやく、彼女の地獄が始まる」
やけにうっとりした声音だった。
その気色悪さに、名胡桃は我に返る。
「あの、さっきからなんの話……」
「こちら、本当にいい絵ですね」
喪服の男は笑みを深めて、名胡桃の言葉を遮った。
「名胡桃様の思う地獄の解釈——全面同意でございます。大勢にまとめて罰を与えるより、その人のためにあつらえた、最適な罰を味わっていただく地獄が最も効果的でしょう。ええ、やはりそれが一番ですとも」
ひとり満足そうにうなずく喪服の男は、名胡桃が怪訝に思っていることを察したらしい。自らの胸に手を当てて、腰を折る。
「失礼。申し遅れました。名胡桃ルミ様のおかげで仕事がひと段落着きましたので、今日はそのお礼に参ったのです」
全く身に覚えがない。
名胡桃は戸惑いながら尋ねる。
「え、いや。お礼……って、言われても。あたし、お兄さんに何もしてないですよね」
「とんでもない! 雲母坂様の注意を私に向けてくださったでしょう? そのうえ、何も耳に入っていない状態もそれとなく指摘してくださった」
「は……?」
「おかげできちんと伝えることができました。『本当にちゃんと周りを見ておられますか』と。それでようやく、雲母坂様にもご理解いただけて、夢を延ばすことが——」
途中で言葉を切り、スッと切れ長の目を細めて、喪服の男は再び口を開いた。
「あの家にぶら下がっている肉塊は、豚ではないんですよ」
背筋が粟立つ。
パニックになった名胡桃の頭の中で、高速の自問自答と連想ゲームが始まった。
——こいつの話、ぜんぜん脈絡がない。
——豚の体長は最大200cm程度。〝枝肉〟は頭を落とし、皮を剥いで、内臓を取り除いた状態の肉。頭を落としているなら、体長はその分短くなる。豚の枝肉は150cmくらいなのでは?
——でも、こいつがなんのことを言っているのかわかる。あたしがきららから夢の話を聞いていたから?
——地獄だったとしても、気づかなければ地獄ではない。……なら、気がつけばそこが地獄とわかるということ?
——なんでそれで意味がわかるんだよ!? きららの夢からこいつは出てきたっていうわけ!? ありえないだろ、ぜったいおかしい!
——きららが夢を見るたびに〝枝肉〟の数は増えていく。夢を見るたびに殺されて吊るされる〝動物〟がいる。
——ていうか、豚じゃないって何!?
——きららの夢の登場人物はいつも同じ。スーツの男と、それから……。
——なら、じゃあ、豚じゃないなら……。
——雲母坂真央の、身長は、ひゃく、ごじゅう——。
名胡桃は脳みその回転に思い切りブレーキをかけた。
「深く考えてはいけない」と強く思った。「意味がわかったらダメだ」と、頭の中で自分自身が、大音量で叫んでいる。
立ちすくむ名胡桃に喪服の男は革靴を鳴らして歩み寄った。
「僭越ながら、名胡桃様にご忠告を。無知を装い、無関心をよしとする態度は感心できかねます。知らず知らずのうちに危ない橋を渡るより、周囲に気を配り、状況を理解したうえで、注意深く言動を選ぶほうがよろしいかと……」
男は屈んで視線を合わせてくる。
「いま、あなたが私にしているように」
弓形に細められた目が冷たくて、生きた心地がしなかった。




