第3話ーアメリカンダイナー風カフェ〝シスターズ〟再びー
「名胡桃? 名胡桃!」
強く肩をゆすられて、名胡桃ルミは我に返った。パイプ椅子の前でぼーっと突っ立っているところだった。
不安そうな顔がこちらを覗き込んでいる。
「安楽……」
「どうした? 具合悪い? 顔が真っ青だけど……」
安楽百枝がこちらを心配していることに気がついて、名胡桃の目からブワッと涙が溢れ出した。
「えっ?! ちょっと、本当にどうしたの!?」
驚いた様子の安楽に、名胡桃はしゃくりあげながら喪服の男とのやりとりをぶちまけていた。
恐怖のあまり頭が真っ白になった名胡桃を置いて、喪服の男が展示室を出て行ったことまで、全て話した。
混乱して支離滅裂な説明だったと思うが、安楽は名胡桃の話を黙って辛抱強く聞いてくれた。
だいたいのことを話し終えると、安楽はグッと眉を寄せて「その不審者、許せないな」と低い声でつぶやく。
本気で怒っている安楽の顔を見て、名胡桃は首を横に振った。
「違う……。怖かったけどっ、いま泣いてるのは……っ」
名胡桃は喪服の男との会話で気づかされたことがあった。「雲母坂は人を陥れることが好きだったのだ」と告げられたとき、反論しようとして、できなかった。
名胡桃が自信を失うきっかけになる出来事のそばに、いつも雲母坂真央がいた。
売上の振るわない対人創作イベントでは常に雲母坂が手伝いを買って出てくれていた。
大好きな動物の近くで働けると喜んだのに条件が合わず、落胆させられた動物病院受付のアルバイトは雲母坂の紹介だった。
最後にカフェ〝シスターズ〟で話したときの会話を振り返ると、雲母坂にはどことなくトゲがあったかもしれない。
口では「ご馳走する気だった」と言っていたが、結局、アイディアを拝借するお礼とはいえ、アイスクリームを奢ったのは名胡桃のほうだ。
雲母坂がそういう態度をとる原因に心当たりはなかったが——。
「あ……あたし、きららに嫌われてたと思う……?」
他に考えられる理由がないのだと絞り出した名胡桃を、安楽はハッとした様子で見つめた。
それから頭をかいて、静かに告げる。
「ねえ、名胡桃。涙止まって落ち着いたら、ご飯行こうよ。……ちゃんと話そう」
ぶっきらぼうに言った安楽に、名胡桃はなんとかうなずいた。
※
「お待たせしました」の言葉と共に置かれたのは湯気の立つオニオングラタンスープだ。
名胡桃が雲母坂と最後に食事したアメリカンダイナー風のカフェ〝シスターズ〟——いま名胡桃の向かいに座っているのは安楽である。
安楽はスレンダーな体型に似つかわしくない〝パティ増量マグマバーガー・ダブル〟を大口を開けて豪快に食べ進めている。いつもながら惚れ惚れする食べっぷりだ。
見惚れていた名胡桃に安楽はメガネのブリッジを抑え「あんたも食べなよ」と言った。
名胡桃は勧められるままスープに手をつける。
濃厚なチーズの塩気と飴色になるまで炒めた玉ねぎの甘み、温かい汁物が喉を通り過ぎて腹へと溜まる感じに、ホッとする。
「結論から言うと、雲母坂は名胡桃のことを嫌っていたわけではない。と、思う」
安楽の言葉に、スープを飲み干した名胡桃はますます安堵した。
「本当? よかったぁ」
「いや、それがいいことだとも一概に言えないっていうか……」
苦虫を噛み潰したような顔をして安楽は濁した。
「でも、なんでそんなふうに思った? クソ不審者の言ってたことを鵜呑みにしてるわけじゃなさそうだけど、……なんかあったの?」
「薄々だけど、ちょっと『あれ?』って思うところが、あった……」
名胡桃のへこむイベントが起きるときに限り、雲母坂がそばにいたのだと話すと、安楽はなぜか神妙な顔で「ごめん」と謝った。
名胡桃は首をかしげる。
「いまの話を聞いて安楽が謝る必要、あるの?」
「……言おうか言うまいか迷って、結局『名胡桃なら大丈夫だろう』って決めつけて、言ってなかったことがある」
安楽は気まずそうにテーブルに目を落とした。
「実を言うと私がこの間の女子会に行かなかった理由は、締め切りが半分、雲母坂に会いたくないのが半分だった」
穏やかでない話である。
困惑する名胡桃を一瞥すると安楽は切り替えるように息を吐き、テキパキと白状し始めた。
「私は雲母坂と小学校の頃から進路が被ってる。でも、クラスが離れがちで、よく話すようになったのは名胡桃を交えた予備校時代……高2の夏からなんだよね。友だち付き合いするようになって、『案外ふつうだな』って思ったのを覚えてるから」
「……どういう意味?」
「雲母坂がいちばん仲良くしてた友だちは、だいたいおかしくなるんだよ」
意味がわからず、名胡桃は眉を寄せた。
「それこそ、クラスが違う私に雲母坂関係のトラブル情報が入ってくるの」
安楽は指折り数えはじめた。
「小・中・高それぞれに、おかしくなっちゃった〝雲母坂の親友〟がいるんだけど……。3人とも雲母坂にめちゃくちゃベタベタ依存してたんだよね。ちょっとそばを離れると、雲母坂のことを公の場で怒鳴りつけたり、罵詈雑言吐いたり、泣いたり……」
「な、なにそれ。情緒不安定にも程があるだろ……」
うんざりしたように言った安楽の言葉を咀嚼し直して、名胡桃は腕を組んだ。
「でも、それならきららが被害者じゃん?」
よく考えなくても他人を公の場で怒鳴りつけたり、罵ったり、感情的になるほうがおかしいだろう。付き合わされる雲母坂のほうがかわいそうだ。
名胡桃に、安楽はうなずいた。
「最初は私もヤバいやつと友だちになりがちな雲母坂が災難だと思ってたよ。私と名胡桃と3人でつるんでるときの雲母坂は、本当にふつうだったでしょ? だから、相手が悪いと思ってた」
安楽は名胡桃を意味ありげに見つめる。
「名胡桃は絵に前のめりで動物好きすぎるから、人間に沼ることは絶対ないなってわかるしね。そもそもあんたは人間にあんまり興味ないだろ」
「まあ……。はい……。ごめんなさい……」
図星を突かれてぐうの音も出ない名胡桃に、安楽は首を横に振る。
「責めてない。私も似たり寄ったりな性質だから。このメンバーならほどよく、楽しく過ごせると思ってたし……」
安楽は言いづらそうにしていたが、意を決した様子で名胡桃を見つめた。
「高校の卒業式が終わったあと……、〝雲母坂の親友〟が、雲母坂のことを刃物で脅して、ガチの警察沙汰になりかけたんだ」
思わず名胡桃は「えっ!?」と大きな声をあげてしまい、慌てて口元を抑える。
それが本当なら、穏やかじゃない、どころではない話である。
「結局被害者の雲母坂が『大事にしたくない』って言って、うやむやにしたらしいんだけど。……実は私、雲母坂がナイフで脅されてるところを見てるの。雲母坂はたぶん知らないと思うけど」
安楽はテーブルに備え付けられたナイフへ目をやって、険しい顔で口を開く。
卒業式の後、ペンを落としたことに気づいた安楽は、体育館で落とし物を見つけたところで、事件と肉薄する羽目になったのだ、と。
まず、叫び声で安楽は異変に気がついた。
入り口から恐る恐る外を窺うと、体育館と校舎をつなぐ渡り廊下に、雲母坂とその親友が立っていた。
震える手で刃物を持った雲母坂の親友が、泣きながら意味のわからないことを叫んでいたのだ。そのとき、雲母坂は——。
「笑顔ですっごい煽ってたの」
安楽は雲母坂とその〝親友〟の会話と情景の異様さに、体育館の入り口で立ち尽くすことしかできなかったのだ、という。
「雲母坂は『刺せるなら刺せば?』とか本当に楽しくてしょうがないって感じで相手を煽ってた。……でも、大人が駆けつけたとき、あいつ『助けて!』って言ったんだ。泣きながら、心底怯えた様子で」
安楽は苛立たしげに前髪をかき上げた。
「それまで散々、本当にめちゃくちゃ煽っておいてだよ?」
安楽の話を聞き進めていくのに応じて、名胡桃はスープで温まったはずの自分の指先がどんどん冷たくなっていく気がした。
『世の中にはそういう人間がいるのです。特に理由なく、他人——中でも親しい相手をおもちゃにすることを好む人間が』
喪服の男の言っていたことの、裏が徐々に取れていく。
「雲母坂は全部わざとやってるんだってわかった。これまでの〝親友〟がおかしくなったのも、たぶん誘導してたんだと思う。雲母坂は〝一番の友だち〟をズタズタにして遊んでる……」
安楽は吐き捨てるように言った。
「あいつ、ガチのサイコパスだよ」
だから、安楽は『雲母坂は名胡桃を嫌っていたわけではない』と判断したのだ。
雲母坂は嫌いな相手に対して嫌がらせをするのではない。
雲母坂は〝友だち〟を選んで、傷つけ、依存させるのだ。
それが楽しくてしょうがないから。
名胡桃はなんとか言葉を絞り出した。
「……安楽が話す気になれなかったのも、わかるわ」
雲母坂の言動になんの違和感も覚えてこなかった名胡桃だ。
喪服の男に指摘されなければ雲母坂の言動に裏があるとは思わなかっただろう。
その状態で安楽から刃傷沙汰の話を聞いたとして、素直に信じられたかというと、微妙なところである。
関係が悪化したり衝突したりする可能性もあるから、安楽が様子を見ようと思うのはふつうのことだ。名胡桃は嘆息した。
「あのね、安楽。もしもあたしが安楽の立場だったら、そりゃきららと距離を置きたいと思うよ。……だから、あたしに何も言えなかったことを、負い目に思うことはないからね」
キッパリ言った名胡桃に安楽は目を瞬くと、ふっと眉を下げた。
「……ありがとう」
しかし、安楽はグッと唇を引き結んで、また名胡桃を探るように見つめた。
その顔はどこか、強張っていた。
「名胡桃、雲母坂があんたにちょっかい出すことはもうないと思う。……あいつが大学辞めたの、知ってる?」
寝耳に水だった。
「知らないよ、そんなの!」
思わず名胡桃は身を乗り出してしまう。
美大を中退する学生は実のところ珍しくない。それでも、雲母坂が中退を選ぶ理由がわからない。
予備校時代、軍隊のように絵を描き続け、講評で死ぬほどダメ出しされながらも挫けずにきた姿を見ているから、なおさら。
安楽が「落ち着いて」と言いながらメガネのブリッジを抑えた。
名胡桃はなんとか冷静になろうと、意識して赤いレザーソファに背中をつける。
「……理由って、わかる?」
「雲母坂本人から聞いたわけじゃなく、うちの親経由で聞いた話だけど……」
安楽は眉をひそめた。
「眠れなくなっちゃったらしい。……病院で出してもらった睡眠薬も飲まないで暴れるんだって。『眠りたくない』『怖い』『殺される』って」
衝撃だった。
言葉を失った名胡桃をおいて、安楽は話を進めていく。
「親から話を聞いたときはふつうに病気になったんだろうって思ってたけど……。名胡桃の話を聞いて、ちょっと……」
白くなった安楽の顔を見て、名胡桃は連想していた。
雲母坂の夢に登場する血の滴る〝枝肉〟。
喪服の男は「家にぶら下がっている肉塊は豚ではない」と言った。
名胡桃が一度は考えるのを止めた推論。——それが、雲母坂が発したという「殺される」という言葉で、はっきりしてしまった気がした。
夢を重ねるたびに、あの家で、雲母坂は繰り返し死に続けている。
フックに吊り下げられ、屠殺された豚と見紛うような姿になって——……。
吐き気がした。
名胡桃が口元を手で覆ったのを気遣ってか、安楽はらしくもなく笑顔を作った。ぎこちない出来栄えだった。
「まあ、夢の話だし。クソ不審者の言うことなんか忘れちゃえばいいし。名胡桃もこれから雲母坂にちょっかい出されることはないだろうから、気に病むことはないよ。雲母坂の病気に、名胡桃は関係ないんだしね」
安楽は真顔になって、念を押すように言う。
「……名胡桃、あんたには関係ないんだよ」
名胡桃はうめいて首を横に振り、頭をかきむしった。
——そんなふうには思えない。あたしは無関係じゃない。だって、きららは、きららの地獄に気づいてしまった。
ぼんやりとした悪夢の中で、本当は何が起こっているのか。何をされているのかに、気づいた。
そして。
——気づかせたのは、あたしだ。
絶望的な気持ちになった名胡桃の頭の中で、喪服の男の恍惚とした声が聞こえる。
耳元で囁かれているかのように聞こえたそれは、なぜだか、以前聞いたものとは違う響きを帯びていた。
『ようやく、彼女の地獄が始まる』




