それから 1/3
産業貿易センターで行われていた合同内見会の帰り道。いただいた名刺を名前順にさっと並び替えて、ゴムバンドでぱちんと止める。ほんの数年前までは、比野文具の事務係としてやっていた、美香さんの手際に話題が及んだ。
「流れるようなあざやかさでしたねー」
「いやいや、比野文具の事務の仕事って何年か前まで全部伝票だったから。手が覚えてるだけだよ」
「今は伝票ってほとんどないですよね。ネットはメールを流し込んでるし。電話でも受けながらパソコンに打ち込んでますもん」
「伝票が必要な相手もいるよ。ご注文をお受けしましたってだけで、その控えを渡さなきゃなんないの。たとえば文化堂さん」
「ああ、そういえば来週から研修においでになるんでしたね。やっぱり若い人でしょうか」
「うーん。あのお店に若い人がいるイメージって、あんまりないんだよね」
文化堂から研修に来た棚田さんは70歳のやや手前。パソコンもインターネットもまったく知らないネット通販の素人さん。だけど商売の達人として知られたこともあったという。当初は番頭さんと呼ばれていたけれど、本人が自分はただの産業スパイですなどというので、無難に棚田さんという呼び名に収まった。
棚田さんは出店話を聞いて志願をしたそうだ。今までやったことのない新しい商売なんて、そんな面白そうなことを若い人に譲るのはもったいない。そうして初日から掃除や工場の手伝いを嫌がることなく行っていた。社長には全部見せろと言われたものの、他社の人に顧客情報を見せるなんてとんでもないと、美香さんの腰が引けていた。本人も見るべきでないと言っていたので意見は一致。だけど忙しさは岩をも流す。だんだん商品情報の整理や受注入力もやるようになっていった。終業後は本棚のコウモリの表紙の HTML本を読んでいた。予備機として机の上にあった IBM ThinkPad 345C も自由に使っていいことになっていた。電話やFAXの受注を主に担当している野原さんとは孫と祖父のように仲良くなって、むかしは自分もスポーツマンだったなどと話していることもあった。
そういえば、前の社長が文化堂の翁と話をしたと棚田さんから聞かされた。しっかり面倒を見るつもりだから安心しなさいと文化堂が言ったそうだ。面倒を見るのはお互いさまだ。同盟関係なのだから。
落ち着いた静かな喫茶店で仕事の話をする無粋な人たち。まずは注文。炭火珈琲、珈琲館ブレンド、炭火珈琲ゼリーふたつ。
「ネット限定品のこと、神楽さんは何か言ってた」
「限定品が買える場所って認知されたら強いから、継続的にやるべきだって。またセールとか広告のことしつこく言ってましたよ。新商品の広告を出すだけなら安売りにはならないでしょうって」
「あの人は集客ばかりだ。楽々自体が人を集めたり囲い込んだりする機能のない場所貸しだから、店に販促させないと食べられないんだ。広告を出すのが嫌なわけじゃないけど、効果が見えにくい。自社サイトでも限定品は動いてるね」
「ウェブサイトで買われるお客様はうちのファンです。気が付いたら買うと思ってました」
「ショッピングカートのことだけど、改造はうまくできそう。テスト環境では楽々の受注メールと同じ構造でメール送信できてる」
「じゃあ受注処理も楽になるんですね」
「そうしたいです。またスクリプトの改修です」
島田君作の、楽々受注メール一括CSV変換スクリプトは動かしながら改良するツールである。まず楽々では備考欄を使っていなかったのを使うことにした。そこで変換スクリプトを手直しして対応。それからデスクトップに置きっぱなしになっていた parse.pl を見えないところに再配置する修正。今度は自社サイトに顧客番号を追加する改修。
「ver.6ですね」
「そうです。小数点以下の修正もありましたが」
「次にカード決済についてなんだけど」
「ご注文お待たせいたしました」
「ああはい、ゼリーはそちら。私は炭火珈琲」
コーヒーにクリームを落としながら話を続ける。
「決済業者さんね、そろそろ再申請が通るかもしれない。話してみたら悪い反応じゃなかった。楽々での実績作りはやはり正解だったね。まだはっきりわからないけど、楽々の決済には使えるようになると思う」
「自社サイトでは使えないですか」
「やっぱりSSLが難しい。リニューアルはカード抜きでやろう」
「わかりました」
「それとレンタルサーバーiSLEさんのサポートから返信が来た。面倒な移転作業なしでスタンダードプランに移れるって。そうしたらサーバー容量は100MBになる。今の5倍だからやれることが増える」
「はい」
「ついでに話しとくと、ケーブル回線は来年早々に対応エリアになる予定。だからそれまではOCNエコノミーで耐える。OCNスタンダードは高すぎる」
良いことも悪いこともあるんだな。
「ゼリー食べちゃおう」
「はい」
「ワンモアシング」
「はい、なんでしょう」
「楽々店長の仕事で Macintosh Performa 588 だと物足りないでしょう。あれはテキスト編集には十分という判断で残してた。ちゃんとした道具を買うのは必要な投資です。iMac G3 Tangerine とかどう」
「ええと、よくわかりません」
「かおりちゃんが新型買うなら、私にまた Performa 588 使わせてください。2台あると便利なので」
「いいよ。じゃあ制作部の共用で真子ちゃんが管理者ってことにしよう。PowerBook 1400cs はあれで間に合ってるの」
「性能は十分です。会議にも持っていくのでノートは便利です」
それから島田君と今川君が昇進した。島田君はOAアシスタントの肩書きが気に入っていると主張して、それを社長が認めてしまったので、主任なのにOAアシスタントのままだ。取引先と名刺交換するわけじゃない。そんなこと言ってたけど、やっぱり変だと思う。
今川君は工場組のリーダーとしてみんなをまとめる資質ありと判断された。工場長がすこしだけ首を傾げていた。今川君の彼女はパソコンを投げる人なのでDynaBookは工場の休憩室に置きっぱなしだ。別れちゃえばいいのにと美智子さんが言っていたことは秘密。
かおりちゃんにも社員登用の打診があった。彼女は疑問符みたいな表情で、はいと答えた。
Excelでシフト表を作っていた竹山工場長がふと身じろぎしたとき、視界の端に動くものがあった。工場予備機の PC-9821V10 を見やると、そのデスクトップに白猫がいた。お昼に社員たちがインターネットで遊んだりしている、そのパソコンの画面は目が疲れないように味気ない無地のグレーの壁紙に設定されている。その中央で漫画調の白猫が耳を掻いていた。
なんだこれ。
気になってマウスを手に取ってみると、イラストの猫がカーソルに気づいて追いかけてきた。なんだかわからないが、これはきっと今川か鈴木のいたずらに違いない。それとも島田か。あるいは裏をかいて林か修。いやそんなはずがあるわけない。そう思いながら見ていると、猫は爪とぎを始めた。かわいいじゃないか。
Neko for Windows で遊んでいたのが今川君であることはすぐにばれた。昇進して落ち着いたと思ったらなんだ、と工場長は叱りつけたけど、猫がいなくなることはなかった。それから同じような猫が山根さんや金山さんのパソコンにも現れた。Mac版もあったのでPowerBookにも侵入した。
NT機に入れようとしたら禁止令を出すよ、と社長が言っていたといううわさ。




