Voyager
斉藤さんがお湯を沸かしながら、外の雪を眺めた。そうして話の続きをうながした。
「それでどうなったんですか」
「やってみるって。飽きたらすぐやめるようなこと言ってた。けど甘いよな、簡単に抜けられるような世界じゃない。神楽さんを紹介することになった。そこから契約と準備をして、どれくらいかかるだろう。4月か遅くとも6月には文化堂楽々市場店の開店だ。それまで文化堂の社員がうちに見習いに来る。雑用でもやってもらって、盗みたいものはなんでも盗んだらいい」
「開店してすぐに恐怖の大王が来たらかわいそうですね」
「その時はこっちも生き残れないだろう。人類が滅亡したら文房具を買う人がいなくなる」
コートを掛けてネスカフェを受け取る。外は寒くて体がすこし震えている。しかし心はコアから熱を発しているように熱かった。文化堂が話に乗るなら同盟関係になれる。乗らないなら過去に置いていくまでだ。選択を迫られた翁は、簡単そうにいいよと答えた。なんでも与えるつもりだが、全部もらっても持て余すに違いない。うちの事務所や工場やシステムはうちの環境に最適化されているのだから。
「あちこちから批判や妬みの声が出ていることは知っていた。文化堂みたいな老舗が出店したら、誰も文句を言わなくなる。時代が変わったことが知れ渡るはずだ。これが正当性の担保になる。それにね、うちの商品をネットで売ってる店はいくつかあって、写真がひどかったり、説明が間違ってることが気になっていた。自社サイトや楽々店は規範になることができると思った」
山下さんが顔を上げて話を聞き始めた。その問題はネットだけではない。店頭にも正確でない情報がある。そして消費者のクレームや不満はメーカーに向けられるものだった。
「公式サイトや取引関係を通じて、まともな商品写真やテキストコンテンツを提供する。相手次第でロゴの使用も認める。だが使用ガイドラインも定める。そうすれば、ネットに出まわる画像やテキストの質が底上げされる。ブランド力が蓄積されるんだ。価格も小売価格に固定する。小売店がいくらで売ろうと自由だが、うちが提示する参考価格を無視できない。値崩れをふせぐ重力になる。メーカーの責任の取り方、信頼と誠実さの示し方、いろんなやり方はあると思うんだけど、これが正しいと考えた」
かおりちゃんがそっと手を上げる。彼女もようやく、自分が雑用アルバイトではないことに気が付いてきた。いずれ社員登用の話も出るだろう。彼女が最初のメルマガを書き上げた日、公式ウェブサイトには求人情報が再掲載された。
「価格競争をしないだけで、楽々店は続けるんですよね」
「もちろん。楽々さんのやり方をまだ全部試してない。手書きのメッセージカードとか店長日記とか。やることはたくさんあるでしょう。文化堂さんが出店したら相互リンクしよう。他の店ともつながりたい。それぞれのお店の良さでお客さんが選んでくれたらいい。それが楽々市場という商店街だと理解しています。神楽さんが求めるにぎわいというのも、そういうつながりから生まれるんですよ。
やりたいことを全部やったら、次はそこで新しいことを試すのもいい。楽々さんの文化に反することをしてもいいよ。それからね、他店がやっているような、荷物に自社サイトの宣伝チラシを入れるやり方。ああいうのはやめておこう。私たちは正攻法でやっていきたい。神楽さんが騒いだら助けに入るよ」
真子ちゃんも席に着いて会話に参加する。社長は別に正しいHTMLが大事だと思っていなかったが、彼女の芸術性がそこに向かうのなら、それもいいだろうと考えていた。書類棚にはオライリーの本が並ぶようになった。
「自社サイトはどうなりますか。セキュリティの問題は解決してないですよ」
「セキュリティはいずれ解決すると思う。どんどんネットのビジネスが広がったら、小さい会社だから混ぜてあげないなんて、そんな意地悪は減っていくだろう。だって商売は間口を広げたほうが得なんだから。それまでに技術や知識を貯め込んでおいてくれたらいい。カタログをそのまま載せる目標はきっと達成できる。
それに、売る以外の公式ウェブサイトの役目も考えてもらいたい。店舗のない私たちにとってその機能を担うのが公式サイトだ。役割はきっと今より大きくなる」
裕太さんが口を挟む。文化堂の件では拍子抜けしている。思った以上の大物に呼びつけられて、もし話が決裂なら、自分も土下座に行くつもりだった。それを巻き込むなんて信じがたいことだ。
「あの、組織のことなんですが。俺が顧客管理や通販を見るのはいいんですけど、ひとりに集中するのは社長が嫌がる属人化ということになるんじゃないかと心配なんです」
「属人は自然に生じる。そしてそれを解体して再構築する。その繰り返しだな。この数年でいろいろやってきて、そういうふうに思った。組織はそうやって成長していくものだ。人と機械、事務所と工場、会社とインターネット、メーカーと問屋、小売店と消費者。それぞれが自由に動いて接点ができる。つながるところに政治が生じる。つながらないところに属人が生じる。意思疎通が大事だって言っただろう。それが属人を解体する力になるんだ」
裕太さんは神妙な顔でうなずいている。
「会社の経営は政治だと知ったよ」
工場奥の倉庫からトラックが走り去る音がした。今日の仕事は終わりが近いようだ。生産量を入力して在庫が更新される。片付け、掃除、明日の準備を行う。それから壁の向こうの休憩室が騒がしくなるのだ。
だんだんと、工場は今川を中心に動くようになってきたようだ。もう役職に付ける頃合いだ。
「明日からもがんばって、作って売っていこう」
コーヒーカップで手を温めながら、比野社長はみんなを見渡した。




