ポスタルコード
「どうもありがとうございましたー」
白いワイシャツに青いネクタイの田中君が車内に戻りタオルで汗を拭う。今年は涼しいというが、走りまわれば汗も出る。助手席のもう一枚のタオルを跳ね除けると、自転車用のゴム紐で固定された IBM ThinkPad 380 のDSTN液晶画面が鈍く太陽を反射した。足元には銀色のインバーターもある。
田中君は右利きだけど、助手席のThinkPadのトラックポイントを左手で操るのが癖になってしまった。カーソルを山田屋さんの頭に持っていってxを打つ。そして右端の備考欄に口頭で受けたばかりの注文内容と配達指定日を書き込んだ。今日の配達はこれで終わり。あとはワイワイストアさんとの商談だけだ。店名の隣の [地図] をクリックすると、アトラスRD for Windows 95 がCD-ROMからマップデータの読み出しを開始し、内蔵ドライブがうなりを上げた。
存在感のあるノートパソコンを渡されて、仕事の工夫をするようにと社長に言われたときは、メールで報告書を送るという話だと思った。そのために新品を買ってくれたのはうれしくも思った。でもそうじゃなかった。金山さんによれば、社長は仕事を楽にする仕組みを自分で作れと言っているのだ。どうやって。
上司の裕太さんに相談をしたら、右から左へとOAアシスタントの島田さんに引き継がれた。パソコンのサポートをしてくれる人だ。
「そういうわけでルート配送の効率化をしなければならないんですよ、島田さん」
「今はどうやってるの」
「メモ帳に顧客番号、顧客名、訪問日、注文内容を書いてます。それを並べ替えて翌日分をまとめます。社長の意図は Office 97 の新機能を活用しろってことだと思うんですよ、他の部署では分析とか複雑な印刷とかしてるじゃないですか。営業も同じようにしなきゃいけないんですよ、きっと」
いっしょに来てくれた金山さんが代わりに答えてくれた。
「新機能ってOutlookかな。メモ帳でかまわない気がする」
「俺もそう思います。でもあの社長が新品のノートパソコンを買ってくれたんです。メモ帳だと失望されます」
「じゃあ Excel 97 にしよう」
島田さんのアイデアは配送する順番を計算で決めたらどうかというもの。田中君の配送は東京の23区内に限られる。各区間の移動距離をマトリクスにすれば、Excelのソルバーという機能で並べ替えができるのではないか。
「ごめん。無理だった」
苦労して準備をした挙句に、わずか数分で無反応になったThinkPadの前で島田さんが頭を下げた。
「メモリ16MBのノートで巡回セールスマン問題は無茶だった。増設しても無理だと思うけど。でも増設はしたほうがいいです。これだとExcelを使うだけでも重い」
主任の裕太さんの決裁権は2万円まで。それで探したら32MB増設メモリが買えたので48MBになった。
「よく考えたら、10件か20件の配達ならソートで十分です。まず顧客マスターを複製したシートからVLOOKUPで郵便番号と住所を引っ張ってくる。それで並べ替えの項目1は郵便番号、項目2は午前午後の指定、項目3は住所。これでだいたい分かれます」
「そうですね。でもこれで社長が納得するでしょうか」
「そう思ったので地図も用意しておきました。まだお客さんの場所は全部覚えてないでしょう。すぐに地図を見られたら効率が上がると思います」
配達予定のシートの項目は左から空白、地図という文字、顧客番号、名前、郵便番号、住所1、住所2、住所3、注文内容。地図という文字の部分はリンクになっていて、E列の郵便番号にハイフンを付けて、アトラスRD for Windows 95 が受け取れる形式にする。そうしたら該当する地図がCD-ROMから呼び出される。
=HYPERLINK("AlpsRD|System! [SearchZip(" & LEFT(E2,3) & "-" & MID(E2,4,2) & ")]", "地図")
「つまり、IBM ThinkPad 380 を助手席に乗せて配達に行けば、簡単に地図が見られるんですね」
「これくらいやれば社長も納得すると思うよ」
「電子地図はわざわざ買ってきたんですか」
「田中君の入社前に美香さんの PC-9821V200/M7 を買ったんですよ。その時のおまけでくれた去年の地図です」
真面目に報告書を書けという意味で発破をかけたつもりだった社長はすこし驚いた。
「使いこなしてるみたいで良かった。この関数って新郵便番号でもそのまま使えるの」
「大丈夫です。でももう新番号にするんですか。切り替えは来年ですよ」
「夏は忙しくないから早めにやっとこうと思って。旧番号とは別フィールドにするよ」
ひらひらとCD-ROMを振りながらそう言った。あれはたぶん雑誌の付録だ。対応表が入っているという話を前にも聞いたことを思い出した。
「どうするんですか」
「普通にFileMaker Proに読ませるよ。作業用フィールドに国番号と住所を結合した文字列を用意して順番に調べさせるだけ。田中君が困らなきゃいいけど」




