ミケコの壁紙
「うちのミケコです」
工場のPC-9821V10の壁紙が猫だった。おだやかな顔の高齢の三毛猫。もちろんメス。赤色のフェルトっぽい首輪をして目を閉じている。背景は茶色の布団かクッション。会社のパソコンのほとんどは目が疲れない無地のグレーに設定されている。そうするように指示があったわけではないので、猫の写真を壁紙にしても別にかまわない。これはおそらくデジカメを持ち歩く鈴木君のしわざだ。工場長が認めているのが不思議だが、工場には工場の人間関係があるんだ。
「どこからお話ししましょうか。先代の社長の道具論からでいいでしょうか」
「在庫の話でお願いします」
「はい。まず先代の社長がイギリスから帰ってきたときに持っていたのがこのFilofaxという手帳なんです。これからは情報の時代だからいい道具が必要だというのが先代の主張でして。真に受けて探し回って同じのを購入したんです。10年ちょっと前でした」
「続けてください」
「それからずっと仕事で覚えたことをこれに書き込んだんです。愛着を持って道具を使えば自分の身体になる、書き込んだことは開かなくても読めるようになるとも言われたので努力しました。今代の社長はFilofaxではなくExcelを使うようにと言われました。なので私は人間Excelになろうと」
「そこまでしろとは言ってない」
「すぐそこに倉庫のある工場では在庫管理は難しいものではありません。生産したら加える、出庫したら引く、違うと思ったら数える。在庫がずれるのは物が動くときです。動かないものは勝手に増えたり減ったりしないのです。だから大きく動くとき、生産したときに間違いをおかさないよう注意しました」
「具体的に」
「ミスを減らすための昔ながらの身体的なノウハウがあります。生産ロスが出た、返品で戻ってきた、誰かが持っていった。忙しいときほどそれらを適切に処理することを怠ったり間違えたりします。ですので忙しい時ほど周囲に声を掛け合って自然にチェックが入るようにしました。それから作業中は誰かの視界に入るよう機械の配置や工程を工夫しました。たとえば断裁機とプレス機を同時に使うとオペレーターは背中合わせになってしまいます。このときどちらかが倉庫の整理に入ると互いに視界に入りますので、危険や違和感を察知することができます。仕事を動かす情報の場所が手帳であろうとExcelであろうと、これらの有効性は変わりません」
暗黙知は言語化しなければ交換価値がない。自分だけの使用価値しかない。交換価値でなければ移動できないのだ。
「手帳でなくExcelで日程や計画を作るようになりました。資材の仕入れ計画も作ります。社員の配置や有給休暇の計画も作ります。その際に立てた方針で、事務所から来る売上予測や顧客の動向など、物の動きに関する情報を信頼することにしました。信頼してみれば、自分の勘に頼る予測より精度が高いことがよく理解できました。何がどれくらいあるかというのはだいたい頭の中にあるつもりだったんです。それを元に頭の中で計画を立てていた。同じことをExcel上で表現するようにしただけです。社長にはたくさんの目で工場を見るということを言われました。それは自分ではわかっていたつもりでできていなかったことでした。なのでExcelを使って工場内の全員に私の考えが伝わるように工夫をしています。仕事のやり方は変えずに道具と姿勢だけを変えております。そうしたら仕事が全般的にしやすくなりました」
「はい。よくわかりました。情報の集約と共有はどちらも大切なこと。それは工場だけではなくて会社全体の方針です。この際だから疑問、質問、要望がある人は共有してください。何を言ってもいいですよ」
鈴木君がそっと手を上げて言った。
「パソコンの話なんですけど」
「在庫じゃなくてパソコンですか。いいですよ。どうしましたか」
「事務所の人たちはお昼休みに自由にインターネットを使ってますよね。でも工場ではお昼も工場長がパソコンの前から動かないので、せっかく繋がったのに残念だなと思って」
「あ、そういうこと。工場用の新しいのが週明けに届きます。PC-9821V166/S7 です。そうしたら2台になるね」
「ありがとうございます。それで大丈夫です」
「置き場所は穴の近くだよ」
自由にインターネットを使うか。工場長の隣では遊べないかもしれないな。でもそこしか置き場所がないぞ。




