チェス・プロブレム
「まるごと買って欲しいと言うんじゃないです。悪い話ではないでしょう」
武田事務機の武田社長は工場の修君の父親だ。息子がフォークリフトを運転する姿を工場の事務スペースから眺めて満足した様子だった。真子ちゃんが事務所から運んできたお茶で一息ついて、それから本題を切り出した。
「うちと比野さんで半々でどうです」
「そんなに出す余裕も利点もないです。だいたい話が急じゃないですか」
「急になるのが急病でしょう」
商店街のはずれの元町印刷所の社長が脳梗塞で病院に運ばれたのが半月前。奥さんと古いスタッフがいるだけの家族経営の会社はなにもかもがペンディングされた状態。
「うちから手伝いをひとり出して再開させるつもりです。会社を買い取ったらそいつを社長にします」
「うちはどう関わるんですか」
「商店街のチラシ屋です。今のままでは将来性があまりない。関わって良くして欲しい」
「そんなこと言われましてもね」
この社長は将来性のない会社を買おうと言っている。何を企んでいるのやら。
「うちに新しい商売のネタがあるんです。これをどうにかするのに力を貸してください。ただの人助けじゃないんですよ。これは投資です」
「じゃあまず会社を見てみましょうか」
汚れたガラス戸の内側はそれなりに清潔そうな工房だった。床はコンクリート。等間隔の蛍光灯。かすかに溶剤の残り香。
木製の作業台の左手に手動断裁機や折り機などの見慣れた古道具。右側手前に事務机とライティングデスク。奥にイメージセッター Katana 5055 と軽オフセット印刷機 RYOBI 3200。事務机の Macintosh Centris 650 は制作用。帳簿や資料が積まれている上に折りたたまれた紺色の Libretto 20 がある。扉の向こうはおそらく倉庫。
「佐川です」
椅子から痩せた工員が立ち上がり挨拶をした。
「奥さんは社長に付き添って病院です。大きな仕事は他にお願いして、細かいのを自分が終わらせました。今は奥さんの指示で片付けをしています」
「片付けって。会社は続きますよ。そのための助っ人も連れてきました」
「比野さん、おひさしぶりです」
「いやどうも、お世話になってます」
ご近所だから面識くらいはある。でも佐川さんと会話をしたことはなかったと思う。
「元町さんのとこはほとんどチラシ専門で商店街の仕事を全部受けてきた。名刺もテンプレートなら作れる。他社からフィルムだけ受けることもあった。それから箔押しもあるよね」
「機械はあります。でも商店街では需要が少ないので3年くらいやっていません」
「比野さんとこも小さい印刷物はあるでしょう。どうされてるんですか」
「そうですね。チラシやリーフレットの類は他に頼んでます。ロットが500枚からなので元町さんが半分からやってくれるなら仕事はありそうです」
「うちは100でも印刷できます。ただしデザインは簡単なものでないと作れません」
「名入れはどうですか。いつもお願いしているところは300からです」
「ひとつからでもやれます。でもやっぱり300くらいないと割高になってしまいます」
そのまま武田事務機へ徒歩で移動した。コーヒーはうちと同じ赤いネスカフェだった。
「これはPOSレジですか」
「コードリーダーとパソコンに違いはないけど、これはQRコードリーダーQS10Hです。先月のグッドデザイン賞で知って、商売のネタになると思って購入して試してるところなんです」
「QRコードってなんでしたっけ」
QRコード。デンソーが開発した二次元コードの規格名。デンソーはこの技術を無償で公開していて、スキャナーやソフトウェアの販売をしている。
「これをね、印刷屋さんの新しい商売に使ったらどうかと思って」
「バーコードのようなものですね。市松模様の中身はなんですか」
「数字だけなら7,089字、英数字で4,296字、普通の日本語で1,817字」
「ずいぶん入るんですね。じゃあ本を出すとか。各ページにQRコードを印刷してリーダーで読むのはどうでしょう」
「このコードリーダーは50万円くらいするんだよ」
「それなら通常のバーコードの代わりに使うのはどうですか。形が珍しいから注目されますよ」
「商品に付けるんですか。でも問屋や運送屋がコードリーダーを導入してくれないと読めないですね」
「テレホンカードに印刷する」
「何のために」
だんだん考えるのが嫌になってきた。武田社長はチェシャ猫のように笑っている。
「社長、わざわざ人を呼んどいてダメ出しばかりはひどいですよ」
「それじゃあ、私のアイデアを話しましょうかね。チケットサービスに使ったらどうかと思うんです」
「チケットにQRコードを印刷するんですか」
「そうです。そしてコンサート会場の入り口で読み取って名簿と照合する。うちがこの装置一式をレンタルします。昨今、チケットの偽造が問題になってますね。そして普通のバーコードは偽造されやすい。これなら安心です」
「それはダメでしょう。オフセットでチケットを印刷したら全部、同じコードになります。カラーコピーで偽造できます」
「それを考えてもらいたかったんです」
翌週、元町印刷所に漆黒の一体型 Macintosh Performa 5420、Excel 5.0 for Mac、キヤノン LASER SHOT LBP-730PS、プリンタ用イーサネットボードEB-1が運び込まれた。設置と印刷テストを行ったのは武田事務機の社員の佐藤さん。開発をしたのも彼だ。COBOL専門の人にVBAを書かせるのは気の毒に思ったが、彼しかQRコードを理解していない。
「まずはコード部分を白く抜いた状態でチケットをオフセット印刷します。A4に6面付けです。ExcelのA列に並んだ番号からQRコードを作成して、最小セルで方眼紙にした印刷用シートに配置します。VBA制御の連続印刷でQRコードを上刷りして、チケットを切り分けたら完成です。プリンターはA3に対応しているので、Macのメモリを最大にしたら12〜16面もやれると思います」
「チケット番号ってどうなってるんですか」
佐藤さんに熱心に質問をするのは、設置の手伝いに呼んだ島田君だ。
「4桁のチケット番号の先頭にランダムな数字を付けて、それを全部足した数字の1桁目をチェック用に末尾に付ける。二次元コードの贅沢な使い方です」
「MacでもVBAが動くとは知りませんでした」
「まったく同じではないけれど意外と互換性が高かった。既存の Centris 650 の資産を使いたいという希望なのでこれが最善です」
その帰り道。
「社長、どうして元町印刷所さんを買わなかったんですか」
「半々なんてややこしい買い方をすると切りにくくなる。武田さんはそれが狙いだったかもな。業務提携はする。新社長は修君のお兄さんだよ」




