Glück
山下さんは、大きめの小売店の受注データを斉藤姉妹のどちらかに出してもらって、お店ごとの売り上げを Excel で調べ始めた。ピボットとかクロス集計というのを勉強しながらやってみると言っていた。そうしたらいくつかのお店で好みというか、傾向らしきものが見えた。
売り上げ傾向に特徴のあるお店のひとつが、車で一時間のところにある日用品店だった。やや縦長変形版の手帳で小さな鉛筆付き。手帳は工場で作って、鉛筆は他社からの仕入れ。セット作業を外注している。この他ではあまり出ないセット商品が、このお店ではかなり売れている。それ以外の商品もいくつか置いてくれている。その個性の理由を知りたい。
「そういうわけでそのお店を見に行ってみようと思うんです」
「直近の受注はFAXだね。この若い顧客番号は、筆まめ住所録由来だ。誰も詳細は知らないと思う。訪問してみるのは賛成だ」
「それでお願いなのですが、仮でいいので営業の名刺を使わせていただけませんか。商品企画部の名前で訪問したら不審に思われるかもしれません」
この会話がきっかけで、営業部と商品企画部がいっしょになって、山下さんの肩書きは営業部商品企画課係長になった。上が空席だから自由に動ける、山下さんはそう不敵に笑った。
それから、ついでのように山下さんが商品マスター管理責任者、裕太君が顧客マスター管理責任者に任命された。以前から登録や修正をすることはあったものの、社長の指示や許可によるものだった。おたがいにチェックしたらミスが減るよと工場長みたいなことを言った。
手ぶらの訪問より、何か用事を持って行くほうがいいだろうと、アイデアをまとめ始めた。
まずはカタログ。規模と頻度から送付先から外れていることは確認済み。
それから、このお店だけで売れている例の使いにくい鉛筆手帳。毎月100個のFAX注文で、そろそろご注文のはず。気を利かせて持ってきたと言えば、悪い気はしまい。
それから、山下さんは赤い車に山根さんも乗せて訪問先に向かった。
「読めません」
ダークグリーンの看板に金色の筆記体で「Glück」と書いてある。
「グリュックだ」
「あれが読めるんですか」
「意味はわからない。でも顧客マスターにはカタカナで登録されてるので発音はわかる。グリュック日用品店」
「日用品のお店には見えないですねー」
赤い塗装の初代トゥデイの助手席の山根がサングラスを外しながら言った。
「もうそれ外しとけ。変装はいらないから」
「変装のつもりではないのですが。それよりどうします。お客さんはいないみたいなので、入るなら今が良さそうです」
「そうだな」
ガラス越しに見た店内が薄暗いので、どんな日用品を売っているのか、まったくわからない。
「お世話になっております。比野文具からまいりました」
「あれ、しんちゃんとこの人。今朝注文したばかりなのに、もう届いたの。さすがネットは早いねえ」
えええ。
「あの私、このお店は初めてでございまして、近くまで来ましたのでご挨拶をと。いつもの手帳とそれと最新のカタログが出来上がりましたので、それもお持ちいたしました」
「そうなの。ごくろうさま。とりあえず受領印押すけど。お支払いはいつもの通りでいいんだよね」
「はい。もちろんでございます。ところでネットでご注文いただいたとのことですが、弊社のホームページからということでしょうか」
「うん。たまたま見つけたんで、通信欄のところから、いつものひとはこって書いて送ったけど。それで来たんじゃないの」
まずい。
「山根ちょっと」
「はい」
「会社にPHSで電話しろ。1ケースの納品は終わったからネットの注文分止めてもらえ。いつも宅配で届けてるお店だからまだ間に合う」
手続きを強制中断してもらわないと。
電話やFAXで注文している顧客がおもしろがってネットで注文をすることは最近よくある。どれも正式販路だから入力した時点でひとつになる。重複があれば検知され確認が入る。通常の配達納品はすべてこのルート上にある。
今回は売れるかどうかわからないものを販促目的の活動として、受注していないのに自分の判断だけで持ってきた。これはほとんどがそのまま持ち帰ることになるから、帰社後に受注入力するというルールになっていた。
あきらかに業務の設計ミスだ。
「戻りました。発送準備は中断されました。それから戻ったら社長報告とのことです」
「わかった。助かった」
「会社のホームページが立派だったから驚いちゃったよ。しんちゃんは元気なの」
「恐れ入ります。しんちゃんというのは、弊社の担当者のことでしょうか」
「社長のしんちゃんだよ。俺の同級生の」
先代かよ。どうする。何も聞いてない。
「そうでしたか。会社のほうに顔を出すことはありませんが、健在とは聞いております。何かお伝えいたしましょうか」
「何も伝えなくていいよ。どうせ毎年、山で会ってるから」
「山ですか。では登山仲間でいらっしゃるんですね」
「古い仲間だね。ここで道具一式を買ってくれたから、こちらもお返しでオリジナルの手帳を作ってもらったの」
「オリジナルですか」
「あんた持ってきてくれたじゃない。あれうちだけのオリジナルだよ」
聞いてない。他には売れてないだけで売ってはいる。一般商品だ。特注扱いになってない。データに問題がある。
「山行に筆記用具は必須なんだよ。だから前にオリジナルのリュック作った時にね、手帳用のポケットを着けたの。だけどポケットのサイズをちょこっと間違えて、ふつうの手帳が入らなくなっちゃったの。それでしんちゃんにちょうどいい大きさのを作ってもらったの。うちのリュックを買った人はずっとこの手帳を買い続けるから、これからもよろしくね」
サイズまで非標準で作った完全なオリジナル。よほどの大口か特別な関係がないとこんなものは作れない。今回は後者だったんだな。
だけど。登山用具って日用品なのか。
「グリュックさんのことは知らないな。でも顧客番号の一桁目が 0 の顧客は筆まめ住所録から登録したとわかるから、その中で動きのあるところを抽出すれば、要注意客リストはすぐ出る。訪問しなくても電話で挨拶すればいい。ローラーでやりましょう。私も掛けますよ。しかし社長本人だけで知ってて記録が何も残ってないんだから、これも暗黙知って言うのかな」
「商品マスターのほうは、特注フラグを立てて、名称も変更しておきました。グリュック・オリジナル手帳です。先方がそう呼称しておりましたので合わせました」
「顧客マスターにも書いたの」
「はい。それから営業部内にも事例として周知しました」
「それと電話で発送を止めた件」
「仮受注で入力した場合、在庫のあるものはオペレーターが受注に切り替えてしまいます。持ち出しはまた違う表示にしたほうが安全です」
「ならその変更ができるまで、持ち出し禁止ということで」
「わかりました。それと、いつもので注文が通った件ですが」
「いつもFAXでそう注文してたんだって。確認手順を決めるべきだなあ」
「今回はいろいろと大変でしたね」
「たいしたことないよ。疑問が解決してさっぱりした」
「でももっと大きなチャンスとか、期待してたんじゃないんですか」
「データには意味があるということが確認できた。それだけで大成功だ。あとは勉強したらいい」




