システムメモリー
透明ビニールで囲まれた工場の事務スペースを山根さんが訪れた。機械と機械のあいだを工場の人たちが準備に動きまわっているのがよく見える。
「紙見本をお貸しいただきありがとうございました」
椅子をまわして低いテーブル越しに工場長が受け取った。
「それで、特色の案件は決まりそうですか」
「まだわかりません。裕太さんと相談しながら進めていくつもりです」
担当するグリーンブックからの特注案件はノートの表紙の色だけを変更したいというものだった。コーポレートカラーの黄緑色で500冊欲しい。
「価格については折り合いを付けられそうです。ただやはりロットが大きかったようです。よく話し合わないといけないですね」
山根さんとしてはもちろん取りたい。だけどできないものはできないのだ。
「できますよ。ロットは1,000だけど500でも方法があります」
あわてて名刺入れを兼ねた小さな手帳を開き、ペンを構える山根さんを工場長は興味深そうに見た。いつの間にかテーブルの上の重厚な革手帳が開いていて、大きな手がピアノを弾くように構えている。
「こういうのは何度かありました。4年前にも似た条件で作っています。近藤君も知ってると思ってたけど、あれは森君が担当してたんだな。まあ通常品と表紙を変えるだけならたいした手間ではないのです。制約はそこではなくて特色の表紙の仕入れのほうです。500で仕入れられるなら500で作れます」
工場長は手帳を見もしない。右手の人差し指が情報をシークし続けていた。
「そのときのことを教えてください」
「あれは1991年4月、担当は森大輔。発注元はSG商事様。ノートB5特色。ロット1,000のところを500生産、不良1、499販売。特別条件ありです。今回と似ているでしょう」
特別条件とはなんだろう。でもこれは朗報だ。もし同じことができるなら成立させられるかもしれない。
「特色の表紙は1,000枚です。これは変わりません。残った表紙だけを余剰材料として買い取ってもらったのですよ」
「そんなことができるんですか」
「工場は契約には関わりませんが、表紙だけならたいした金額ではないのです。買い取ってもらってここで1年間預かるという話でした。再発注があればそれを使いますし、なければ期限後にお渡しします」
すっと指が動く。まるで次のページの裏側を読むように。
「半年後に再発注がありました。残り500、不良なし、担当は近藤君。だから彼も知ってるんじゃないですか。忘れているだけで」
「そんなこまかいことまで手帳に書いてあるんですか」
「書いてあります。だから探し出せたでしょう」
戻ってきた裕太さんに過去の案件についてたずねると、やはり覚えていなかった。だけどメモを見せたら思い出した。
「あー、たしかにあの案件と今回のはよく似ている。交渉してみる価値はあると思う。いっしょに行こうか」
「大丈夫です。まずは私からお話ししてみるつもりです」
そして明日の午後に訪問することが決まった。山根さんは自分の手帳にアポを書き込んだ。そっと文字に指で触れてみたが何も感じ取れなかった。
交渉から戻ると裕太さんはいなかった。ホワイトボードには裕太、緊急、埼玉、直帰と美香さんの字で書かれていた。こういうことはたまにある。上司への報告を明日にして山根さんは工場に向かった。
「ありがとうございました。まだ決まっていませんが悪くない反応です」
「それはよかった」
工場長は手帳のリフィルを並べ替えながら、すこしだけ山根さんを見て返事をした。その革の手帳がすごく気になる。
「その手帳ってとても古いものなんですよね」
「これはそんなに古くない。使い込んだから傷んでるだけだ。そうだな、まだ10年も経ってない。銀座で買ったものだ」
「私のとはだいぶん違いますね」
山根さんは自分の赤い名刺入れを取り出した。5つのリングが内蔵された小さなシステム手帳になっていた。地下鉄マップ、テレホンカードホルダー、ポケベル暗号表、公衆電話マップ、手鏡。
「探偵か忍者の道具みたいだな。ふつうのリフィルはどれくらい入れてるんだ」
「30枚です。それ以上入れると名刺があまり入らなくなるんです。これは名刺入れなので名刺が優先なんです」
工場長は文字から目をそらして未使用のリフィルを調べているようだった。
「使い方はだいたい俺と同じだな。1件1ページ。長期、中期、短期の情報分類」
「ぜんぜん同じじゃないですよ」
「いや同じだよ。ロットごと、案件ごとに新しいページを使ってる。今川や林が何かを言ってきたら、そのたびにページが増える」
それはそうなんだろうけど。たぶんそこから先が違うのだ。
「どんどんページが増えますね。どうやって整理するんですか。私の場合はリフィルを外して分類してクリップでまとめています。机の引き出しにたくさん入ってます」
「そうだな。見やすい表に作り直すことが多い。共通項をまとめてひとつの案件として扱うこともある。それで元のリフィルはやっぱり束ねて押入れの中だ。システム手帳は捨てることが大切だから」
工場長はこちらを見ていない。どこかを見ながら言語化している。
「どんな情報も大中小に分けられる。大から中、中から小を作る。小から中、中から大に反映する。生産計画に当てはめるなら年間、月間、週間だ。営業の場合もそんな感じだろう」
「そうですね。月間スケジュールのリフィルには長期予定や確定していない計画を書いています。それから週間タスクのリフィルには To Do リスト、アポ、買い物。それ以外は自由メモです。同じといえば同じだけどやっぱり違いますよ。私は見ないで読んだりできません」
「俺だって何もないところから記憶を取り出してるつもりはない」
工場長はリフィルをめくりながら考えていた。
「近藤君はメモを見て過去の案件を思い出した。俺の場合もそれと同じことだ。手帳のどこに何が書いてあるかは探さなくてもすぐわかる。触った感じや折れ具合で目的のページがわかる。ページを開けば、書いた時の状況や何を考えながら書いたかも思い出せる。リフィルはそれ自体が記憶のかたまりだ。文字や数字をきっかけにして圧縮された背景や関連情報が出てくる。見ないで読んでるわけじゃないぞ」
「でも見ないで読んだじゃないですか」
「そういうこともある。見なくても、見ようとするだけで思い出すのはたまにだ。いつもじゃない」
山根さんは困ってしまったので話題を変えることにした。
「ところでリフィルって高いですよね。私は自作することもあります。工場長はどうされてますか」
「俺も自作することがあるよ。専用のパンチがある」
「専用のパンチって高いから私はまだ持ってないんですよね。シングルパンチを使ってます」
工場長は苦笑していた。
「ところでメモ用の白紙のリフィルを先頭に何枚か入れておいたらいいよ。そうすれば開いてすぐメモできるから」




