ファイロファックス
梅雨明けのないおかしな夏だった。湿った朝の空気が肌に冷たい。晴れてはいるものの太陽が頼りない。
外に出て左隣、道路から見れば右隣の大きな建物が工場兼倉庫だ。ひとつの建物が壁で大小に区切られたのを戦後まとめて買い取って工場と事務所にした。屋根も壁も白く、高いところにグリーンのロゴが描かれている。
工場の上は中二階にしては広くて高さのある半端な空間。書類やあまり使わない道具の置き場所だ。階段脇のダムウェーターが小さくて、まともに倉庫として使うのは難しい。事務所のほうの上の階は比野が会社から借りて住んでいる社宅だ。
表の小さな扉から伝票を手に工場に入ると中は静かだった。油と粉塵が空気に混じっている。断裁機、罫線印刷機、丁合機、綴じ機、糊付け機、大小のプレス機。今はどれも停止している。
工場長の竹山を含めてここの社員は3人しかおらず、アルバイトを増減させて労働力を調整している。今はミーティング後でアルバイトの出勤前の時間帯。社員だけで前日の仕上げ、今日の準備、入出庫などを行っているはずだ。
すぐ目の前の壁際に薄い透明ビニールシートで区切られた事務スペースがある。奥のほうにある同様のスペースは社員たちの休憩場所だ。これらの小さな空間には家庭用のエアコンが設置されており、過ごしにくい時期の避難所にもなっている。しかしこの夏は一度も使われていないようだった。さらにそこから先は倉庫だ。工場と倉庫を区切る分厚いビニールカーテンは開放され、赤いラックが並んでいる。その側面にホーローの禁煙パネルが目立つ。
竹山は事務スペースにいなかった。かまわずに出庫と書かれた箱に伝票を放り込んだ。ただの日課の見まわりだから用事はこれだけだ。
裏手の搬入口のシャッターが開いていて、電動フォークリフトが荷下ろしをしていた。コンクリート床の緑の防塵塗装がシャッター付近だけ剥げかかっているようだ。印刷済みの表紙、外注で作らせた原稿用紙、セット商品用の鉛筆。
鉛筆1C/Sは5kg、1本が5gとして、5kgは約1,000本。パレット上に2C/Sあるから2,000本だ。箱には5kgと書いてあるのに納品書は2,000本。さらに実際にはもうちょっと入っていて、破損や汚損を除くとだいたいぴったりの数になるよう調整されている。
作業場では白い作業服と帽子の社員が生産されたノートの箱詰めと検品をしていた。A4ノート細罫。さっきの伝票にも書いてあった売れ筋だ。やや高級な価格帯で表紙の色展開もある。行政文書の統一が加速して、A4の動きがとくに活発化している。その代わりにB判の在庫が過剰になるおそれがある。
汚れや断裁のずれなどを目視でさっと確認して専用の段ボールに詰める。詰めたものを電子秤で計量する。こちらは1C/Sに20冊入る。わざわざ数えずに計量するのは鉛筆と同じ。秤さえ正確なら数量も正確だろう。秤の正確さはどう保っているのか気になる。よくある近似なのに、一度気になると頭に引っかかる。
竹山さんは運転手と話し込んでいた。創業者の比野真がこの地に工場を開設したとき、その息子で先代社長のに連れられてきて工場長になった。先代とは勤労動員先で知り合ったそうだ。
その右手には黒い革表紙のファイロファックス。先代の影響で使うようになったものだ。
システム手帳の原型のバインダー式ノートは19世紀末にドイツで生まれた。目的ごとの様々な種類のルーズリーフを自由に組み合わせたり、並べ替えたりすることができる。それを改良したのがアメリカで、広めたのが英国だった。
第一次大戦の戦場で膨大な記録を効率的に管理するために使用された手帳は、戦後には民間用のビジネスツールとして普及した。その代表がファイロファックス。サッチャー政権下の自由なビジネスエリートたちがその効率性に目を付けたのが今に続くブームの始まりであり、それは世界中に波及して多くの模倣品が作られた。
竹山はオリジナルに敬意を持っていた。うちではシステム手帳は作れないし、仕入れたこともない。彼は使うだけで満足なのだろうか。
壁のシフト表や工程表は少なく整然としている。当面の仕事に必要な情報だけが選び出されて掲出されている。情報集約は執着であり思想だ。正しい情報かどうかは外からはわからない。
今は話すことはない。ここにいると製品や資材の管理について、何か言いたくなってしまう。だが先にやることがあるので、工場のほうはうまくやっといてくれと視線で伝えてみた。伝わってはいないだろうが、竹山工場長は小さく黙礼を返した。




