4.珈琲店での会話
「申し訳ない。ちょっと仕事が長引いてしまって。」
「………。」
「ずいぶん待たせてしまったんで、もういないんじゃないかと思った………。」
「………。」
お願いがあるとか言っておきながら、また例によってなかなか口を開かない。僕は少し苛立ってきたが、いきなり問い詰めるのも大人げないような気がした。
「気分でも、悪いんですか?」
「……いえ、……ごめんなさい。私が、変なことを………言ってしまったものですから……、あなたにご迷惑を掛けました。」
「いや、それはいいんです。ただ、あなたは表参道へ行くんじゃなかったんですか?」
「……ええ。………でも……」
「でも?」
「……その前に、……私のことを、お話ししなくてはいけません。」
「なるほど。」
「……聞いて………いただけますか?」
そう言って、女は、初めて顔を上げた。そして、また、あの大きい目で僕を見つめた。
僕は、この女の身の上話を聞き終えるにはどの位の時間が掛かるのか心配になったが、しかしここまできたら、もう付き合うしかなかった。
「私、……どうしても、………言葉が………すぐには出てこないのです。………だから、なかなか………人と話せないのです。………でも、あなたなら…………聞いていただけるような………気がいたしました。」
「大丈夫ですよ。ゆっくりでいいから、話してごらんなさい。」
僕はこの時、心からそういう気持ちになって、女の語る話の中に入っていった。
女は、名前をユウコと言った。
有名な私立大学の英文科を出ていて、本当は通訳か外資系企業の秘書になりたかったらしいが、言葉がすぐに出てこなくては勤まらないので、今は自宅で翻訳の仕事をしているということだった。
確かに、この容貌で一流大学を出ていて英語ができれば、普通なら引く手あまたというところだろう。
ところが、唯一つの欠点というか、癖というか、要するに、普通の人間と会話のテンポが合わないというだけで、就職先からすべて断られ、大学を卒業してからというもの、友達などともめったに会わず、普段はほとんど外に出ることもなく暮らして来たようだった。
その卒業以来七年たつと言っていたから、僕よりは二つくらい年上ということになるのだろう。
そして、その日は、約束の翻訳を表参道にある依頼先に提出するために出てきたのだそうだ。
ただ、ユウコが言うには、その翻訳依頼された英文の論文の中に一か所どうしても釈然としない部分があって、一応は単語を置換えて直訳調の文章にしてみたが、やはり納得がいかないとのことだった。
そして、僕への頼みと言うのは、彼女の翻訳の指導教官か監修者にでも成り済まして依頼先へ電話をいれ、関連する文献を調べたいため二日ほど猶予をもらいたい旨を伝えてほしいということだった。
彼女は、ゆっくりと時間を掛けてそこまで語り終えると、本当に大きな荷物を下ろしたような安堵の表情を浮かべ、大きく息をついた。
僕は、いつのまにかユウコの話に引き込まれて、彼女の今までの境遇や、今日一日彼女を悩ませていたことに心から同情し、そうして、できるだけ力になってあげようという気持ちになっていた。
そして、すぐに電話のところにいって、彼女が示す番号に電話をかけて向こうの担当者を呼び出すと、精一杯の重々しい声で、依頼文にはどうしても不可解な部分があること、もう何日か時間をもらい調査をした上で翻訳を完成させないと当方の責任が全うできないことなどを伝え、締切りを三日後に伸ばすことで了解を得た。
振り向くと、そのやりとりをすぐ横で聞いていたユウコは、初めて、こぼれるような魅力的な笑顔を見せた。僕は、この時、彼女を心からいとおしく感じ、また、僕自身も、何か満ち足りた思いを味わっていた。




