3.青山一丁目駅
「あの、僕はここで降りますから。」
と言うと、その女は、まるでそれが当然のことであるかのように、僕の手を取って、一緒にホームへと降りた。また、あのひんやりとした感触が走った。僕は驚いてその女の顔を覗き込んだ。
「………。」
「あなたは、どうするんですか? 表参道はもう過ぎちゃいましたよ。」
「………。」
「もし、表参道に戻るんだったら………」
と言い掛け時、女は、やっと口を開いた。
「あなたに、……、お願いしたいことがあるのです。」
「えっ?」
「………。」
「何ですか、お願いって?」
「………。」
「困ったな。僕は、これから仕事で行かなくっちゃいけないところがあるんですよ。」
女の顔が、また憂いを含んだ表情になった。気のせいか、その大きな瞳が、潤んで来たようにも見えた。僕は、このままその女を振り切って逃げることはできないように思えた。
「一体どうしちゃったのかな。もし、どうしてもって言うのなら、仕事といっても書類を渡してちょっと説明するだけだから十五分くらいで済むと思うけど、その間待っててくれますか。」
女の顔に、さっと、安堵というか、喜びの表情が満ちてくるのが分かった。
僕は、女をすぐ近くの珈琲店まで連れて行き、できるだけ早く戻ってくるから、と言い含めて、すぐ近くにあるA社のところへ走った。
A社では、思いのほか時間がかかってしまった。
僕は、当時、小さな旅行代理店に勤めていて、その日は、A社の海外スタッフがヨーロッパに行くというので、格安航空券やホテルや空港のトランスファーなんかを組んだ見積書を届けにいっていた
べつに郵送でもよかったのだが、出発日も迫っていたし、大事なお得意先でもあるし、それに、万一電話で聞いた内容が勘違いを含んでいてもまずいからと思い、わざわざ足を運んだのだったが、その万一が当たっていた。日程が途中から一日ずつずれていて、向こうの担当者は怒り出すし、そこから会社に電話をして手配のやり直しを頼んだり、費用を再計算したりで、大汗をかいた。
本当なら、すぐに会社に戻らなければならないところだったけれど、もう一か所まわらなきゃいけないところがあるから、と再度電話をいれ、同僚の女の子に、再手配のファックスなんかを頼んだ。電話の向こうで、その女の子がむくれるのが分かったが、ごめんを連発して何とか押し切った。
また、大きな借りを作ってしまったな、と思いながら電話ボックスを出て時計を見ると、さっきの不思議な女を待たせてから一時間近くがたっていた。
諦めて帰ってしまったかもしれない。
そこにいてほしいような、いてほしくないような、複雑な気持ちで珈琲屋を覗くと、女は、一時間前とまったく同じ姿勢で、じっとうつむいて、そこに座っていた。
僕は、思わず戦慄のようなものを感じたが、観念してドアを開け、女の座っているテーブルへ向かった。




