第三話:土と鉄の胎動
謁見の間には、異様な緊張感が漂っていた。
玉座に鎮座する父上――トゥパック・インカ・ユパンキ の傍らに、3歳の幼子である俺、ワイナが立っている。俺の前にひれ伏しているのは、使者を通じて召集された帝国全土の重鎮たちだ。熟練の石工長、薬草と医術を司る長老、そして広大な農地と鉱山を管理する地方行政官。
彼らの視線には、困惑と敬畏、そして隠しきれない疑念が混ざり合っていた。いくら皇帝の命とはいえ、まだ幼い皇子の言葉に従わねばならない理由を、彼らの理性が納得していないのは当然だった。
(言葉だけじゃ動かない。叩き込むのは『概念』ではなく『現実』だ)
俺は一歩前へ出た。小さな足音が、静寂な石造りの広間に鋭く響く。
「面を上げよ」
幼少特有の甲高い声を、極限まで低く、毅然と響かせる。
「父上より話があった通り、私は太陽神様より神託と知識を授かった。今日集まってもらったのは、汝らに戯れを命じるためではない。このタワンティンスーユ全土の命運を左右する、新たなる『国の骨組み』を造るためだ」
俺はあらかじめ現代から持ち込み、隠しておいた大型の画用紙と太い油性ペンを取り出した。それを広間の床に広げる。真っ白で平滑な紙、そして漆黒の線を描く不思議な棒。それだけでも職人たちの目が点になった。
「まず、薬草師と医師に命じる。明日より、すべての兵士と民に『手を清める』と『水の煮沸』を徹底させよ。傷口の処置には、加熱した水と、特定の方法で蒸留した酒を用いる。病は目に見えぬ小さな『悪霊』が体内で増えることで起こるのだ」
「 使徒様、それは神聖なる儀式を行わずとも防げるものなのですか?」
老練な薬草師が恐る恐る尋ねてきた。
「儀式は心を救うが、悪霊から体を救うのは衛生という『規律』だ。従わぬ者は、病を伝播させる国賊とみなす。具体的な手順は追って紙に書き残す。いいか、これは実験ではない。全軍、全都市での絶対義務だ」
俺の語気に押され、薬草師は深く地にし伏した。
次に俺は、石工長と行政官に向き直った。
「次に、土木と鉱山だ。石工長、インカの石積み技術は見事だ。しかし、車輪を使わぬ運搬には限界がある。これを見よ」
俺は画用紙に、円形の車輪と軸受け、そしてそれらを組み込んだ二輪手押し車の構造図を手際よく描いた。
「輪……? 円形の木枠でございますか?」
石工長が首を傾げる。山岳地帯であるインカにおいて、車輪は玩具レベルでしか存在せず、実用化されていなかった。舗装されていない急勾配の山道では使えないと思われていたからだ。
「平地や整備された幹線道路において、この『車輪』は一人で十人分の荷を運ぶことを可能にする。勾配のきつい場所には木製の軌道を敷く。まずはクスコ周辺の資材運搬路から試作せよ」
そして、最も重要な本題へと踏み込んだ。
「行政官。現在、帝国で採掘されているのは主に金、銀、そして銅と錫による青銅だな?」
「は、はい。神々に捧げる装飾品として金銀を、農具や一部の武器として青銅を採掘しております」
「今日限りで、その優先順位を変える」
俺の言葉に、周囲の側近たちがざわめいた。太陽神の象徴である金と、月の象徴である銀の採掘を後回しにするなど、宗教的根幹に関わるからだ。だが、俺は構わず言い放った。
「金や銀では、敵の刃を防ぐことも、岩を砕くこともできん。神々が真にこの国へ下された最大の試練に打ち勝つため、我々が掘り出さなければならないのは『鉄』だ」
「テツ……? それは、青銅よりも優れた金属なのですか?」
「青銅とは比較にならん。硬度、強靭さ、加工の幅、すべてにおいて鉄は青銅を凌駕する。鉄の剣は青銅の剣を断ち切り、鉄の鎧は矢を弾き返す。鉄を制する者が、この大陸の覇者となるのだ」
俺は事前に現代で調査した、南米大陸における鉄鉱石の分布と、インカ圏内の地質データを頭の中から引っ張り出した。もちろん、史実のインカでは製鉄技術が存在しなかったが、鉱床そのものは存在する。特にペルー沿岸部やアンデス山脈の特定地域には、磁鉄鉱や赤鉄鉱の豊富な鉱床が眠っているはずだ。
「これより伝える場所に調査隊を派遣せよ。黒く重い石、あるいは赤みがかった重厚な岩石が集まる地だ。見つけ次第、サンプルを持ち帰らせろ」
「さらに、製鉄には膨大な熱が必要となる。木炭の増産体制を整えよ。大規模な高炉を築くための耐火レンガの製造を開始する。粘土と砂を混ぜ、高温で焼き固めるのだ」
矢継ぎ早に出される具体的な命令。単なる神託の域を超えた、極めて実践的で緻密な国家計画の提示に、謁見の場にいた全員が息をのんでいた。
父上ワイナ・カパックが、ゆっくりと立ち上がった。その目は、感心と同時に、我が子に対する底知れぬ怖れを孕んでいた。
「ワイナ……いや、神の使徒よ。お前が示そうとしているのは、我らの先祖が築いてきたあらゆる知恵を塗り替えるものだ。本当に……本当にそれで国が強くなるのか?」
俺は父上をまっすぐに見つめ返した。一切の揺らぎを見せず、自らの魂を叩きつけるように答える。
「父上。遠からず、海の向こうから『鉄と火を纏う怪物』がやってきます。彼らは容赦なく我らの国を焼き、民を奴隷とし、神殿を踏みにじるでしょう。それに抗う術は、我ら自身が彼ら以上の『鉄と火』を手に入れること以外にありません。これは破壊ではなく、生存のための変革なのです」
重々しい沈黙が広間を支配した。
やがて父上は深く頷き、力強く言い渡した。
「聞いたな、者共! 使徒ワイナの命は、余の命と同義である! 直ちに動け! 鉄を探し、輪を作り、病を退けよ!」
「「「ははっ!!」」」
ひれ伏す大人たちの背中を見下ろしながら、俺は冷や汗で湿った拳を強く握りしめた。
(第一段階はクリアだ。だが、ここからが本当の地獄だ……)
◇
計画の実行は、予想通り困難の連続だった。
数週間後。クスコ郊外の実験場に、俺と石工長、そして数十人の兵士が集まっていた。
目の前には、試作された二輪の手押し車が置かれている。職人たちが削り出した木製の車輪には、補強のための青銅の帯が巻きつけられていた。
「引き試してみよ」
俺の指示で、兵士が巨大な石材を積んだ手押し車の取っ手を持ち上げた。
ゴロゴロと重苦しい音を立てて、車輪が土を噛む。かつては4人の男が担ぎ棒で喘ぎながら運んでいた重量の石が、たった一人でスムーズに前進していく。
「お……おおおっ!?」
現場にいた職人や兵士たちから、どよめきが巻き起こった。
「動いた! 石が……石が滑るように動いていくぞ!」
「神の車輪だ! 太陽神様が賜った知恵だ!」
感動に歓声を上げる彼らを横目に、俺の思考は冷徹だった。
(喜びすぎだ。平地での成功は当たり前。問題は耐久性と、山岳地帯での運用だ)
「石工長、浮かれるな」
俺の冷ややかな声に、職人頭がハッと息をのんで背筋を伸ばした。
「車軸の摩耗はどうなっている? 摩擦熱で焼き付くのを防ぐため、動物の油脂を定期的に塗布する仕組みを作れ。それから、登り坂での逆走を防ぐ歯車式のブレーキ構造を組み込め。この程度で満足されては困る」
「は、はいっ! ただちに改良に取りかかります!」
言葉は厳しいが、そうしなければ時間が足りないのだ。
次に俺が向かったのは、山裾に建設された試作型の高炉施設だった。
各地に派遣された調査隊から、続々と「黒く重い石」――鉄鉱石のサンプルが届き始めていた。ペルー中央高地の鉱床から採取された磁鉄鉱だ。
だが、ここからの障壁は車輪の比ではなかった。
「使徒様……温度が上がりません! 銅を溶かすときと同じように木炭を燃やしておりますが、この黒い石はびくともいたしません!」
顔を黒煙で汚した製錬職人が、絶望的な表情で俺に訴えてきた。
粘土と耐火レンガで組み上げた筒型の高炉。その内部で炎が猛威を振るっているが、鉄を還元し、溶融させるために必要な1500度近い高温には到底届いていない。インカ伝統の「風管(送風用の管)」で人間が息を吹き込む程度の火力では、鉄鉱石はただ温まるだけだ。
(知っていた。知識として分かっていても、現実の壁は厚い)
前世で科学の教科書を読んだ知識はある。だが、俺自身は製鉄の専門家ではない。高炉の内部構造、送風機の仕組み、石灰石を粘結剤として投入し不純物を除去するプロセス……頭の中にあるあやふやな概念を、この16世紀の材料で再現しなければならないのだ。
「ふぅ……」
俺は深く息を吐き出し、胸のポケットから現代のスマートフォンを取り出した。
当然、電波は通じない。だが、転移能力を使って現代に戻った際、あらかじめオフラインで閲覧できるように保存しておいた『古代製鉄の歴史と高炉の構造』に関する無数の論文や解説画像のデータが、この小さな端末の中に詰め込まれている。
現代の世界へ一度戻り、必要な工具や耐火塗料、大型の水車用設計図をプリントアウトして持ち込む。
(自分の力だけでやろうとするな。使える現代のリソースは泥泥しく叩き込め。ただし、現地人が原理を理解して維持できるように噛み砕いて渡すんだ)
俺はスマートフォンに表示された「水車式大型ルボ」の構造図を紙に描き写し、製錬職人に突きつけた。
「息で吹くのではない。川の流れを利用した『水車』の力で、巨大な皮ふいごを連続駆動させる。絶え間なく大量の酸素を炉底から送り込むのだ。さらに、この白い石――石灰石を砕いて鉄鉱石と一緒に炉へ投入せよ。不純物が分離しやすくなる」
「す、水車でふいごを……! 石灰石を混ぜる……!?」
職人たちは俺が渡した図面を、まるで神の啓示であるかのように貪りつくように見つめた。
「これが、鉄を産み落とすための『火の法』だ。失敗を恐れるな。炭が足りぬなら山を切り開け。炉が崩れたら何度でも積み直せ。一か月以内に、最初の一片の『鋼』を俺の前に持ってこい」
「……御意!! 使徒様!! 死力と尽くします!!」
男たちの目が、単なる従属から、未知の技術を切り拓く技術者の熱量へと変わっていくのを俺は見逃さなかった。
ハッタリから始まった「神託」が、現地の人々の汗と土煙によって、着実に「技術」へと変貌し始めていた。
◇
夜。クスコの宮殿の屋上に、俺は一人で立っていた。
眼下に広がるのは、松明の火がぽつぽつと灯るインカの首都の夜景だ。標高3400メートルの澄み切った空には、今にも落ちてきそうなほど濃密な星空が広がっている。
冷たい山風が、幼い身体を容赦なく叩く。
「……ハぁ」
白い吐息が夜の闇に消えていく。
昼間は大人たちの前で冷徹な「太陽神の使徒」を演じきっているが、一人になると強烈な孤独と重圧が押し寄せてくる。
前世では、放課後に友達と無駄話をし、美少女からの告白にドキドキしていたようなごく普通の高校生だった。それが今や、数百万人もの人間の命運を背負い、技術革新という名の血の滲むような構造改革を力づくで推進している。
拒絶反応を示す伝統主義者からの暗殺の危険。
製鉄や車輪の導入によって崩壊するかもしれない従来の社会秩序。
そして何より――どれほど急いでも、数十年後には必ずやってくるスペイン征服者との激突。
(本当に、間に合うのか……?)
自分の小さな手を見る。
現代から持ち込んだボールペンを握りしめすぎたせいで、指先にはマメができていた。
弱音を吐けば、一瞬で呑み込まれる。
俺が立ち止まれば、この国は史実通りに焼き払われ、病原菌によって人口の九割が失われ、奪われた黄金と共に歴史の闇へと消え去るのだ。
「甘えるな、霧沢 輝……いや、ワイナ・カパック」
俺は自分の頬を、両手で強く叩いた。パーンと甲高い音が夜空に響き、鋭い痛みが意識を覚醒させる。
神の気まぐれで命を弄ばれ、この過酷な時代に叩き落とされた。
ならば、その神の鼻明かしをしてやる。
歴史という名の絶対のルールを、俺のこの手で踏みつぶして改変してやる。
「鉄を作らせ、武器を鍛える。馬を持ち込み、騎兵隊を育成する。天然痘の種痘の原理を再現し、全民に接種させる……やるべきことは山積みだ」
闇の向こう、幾重にも連なるアンデス山脈のシルエットを見つめる。
遠い未来、大西洋を渡ってくる鉄の船と火縄銃を持った男たち。
ピサロよ。お前たちがこの地に降り立った時、目にするのは無力な原住民の国ではない。
蒸気と鉄の匂いを漂わせ、近代的な軍略を備えた、難攻不落の「大帝国」だ。
「来れるものなら、来てみろ……」
幼き皇太子の瞳に、黒々とした強い宿命の火が宿る。
冷たい風が吹き抜ける中、俺は静かに背を向け、次なる計画を練るために己の執務室へと戻っていった。
インカの地平に、新たな時代の足音が、確かに響き始めていた。




