第二話:覚悟と初の神託
父上たちが去り、静寂が部屋に戻ると、俺は深く息を吐き出して冷たい石の床に腰を落とした。
手に残る万華鏡の感触。胸の奥で警鐘を鳴らし続ける心臓の鼓動。 ……騙せた。ひとまず、今は。
だが、冷や汗が背中を滑り落ちていく。幼い身体の皮膚が、恐怖と緊張で粟立っていた。
「神の使徒、か……」
自嘲気味に呟く。 現代の玩具ひとつで大人をひれ伏させ、太陽神の意志を捏造した。一歩間違えれば、不敬罪や悪霊の憑依と見なされて即座に殺されていたかもしれなかった。成功したから良かったものの、自分の綱渡りな思考に目眩がする。
こんな出たらめな誤魔化しが、いつまで通用する? 万華鏡の仕組みを誰かが解き明かしたら? 現代から持ち込んだ物品が壊れたら? 俺が提示した「奇跡」に依存すればするほど、それが途絶えた瞬間に待っているのは狂信者たちの怒りと惨殺だ。
それに、最大の誤算は俺自身の精神にあった。
(……甘すぎる。俺の考えは、あまりにも幼稚だ)
「アトランティス」などという悪ふざけのような国名を考えていた自分に、激しい嫌悪感が込み上げる。 ここはフィクションのゲーム世界でも、気ままな無双ファンタジーでもない。泥と汗の臭いが漂い、病と死が目に見える形で日常に転がっている、過酷な16世紀の現実だ。
数十年後、ピサロたちが連れてくるのは、ただの鉄の鎧を着た兵士ではない。 銃火器と馬匹、そして何より、この大陸の人間が一切の抗体を持たない「致死的な病原体」だ。 文字通りの地獄がやってくる。俺がどれほど現代の物資を持ち込もうと、この国の衛生概念を根本から変え、社会構造そのものを鍛え直さなければ、民も、家族も、俺自身も全滅する。
俺は小さく引きつった自分の両手を固く握りしめた。 爪が掌に食い込み、確かな痛みが走る。
怒りや恐れに任せて神を呪う時間は終わった。助けてくれるヒーローなんてどこにもいない。自分の足で立ち、自分の頭で考え抜くしかないのだ。
「日用品を並べて満足している場合じゃない」
今必要なのは、見掛け倒しの「神器」ではない。 この国の人々を病から守るために衛生の概念、感染症を防ぐ隔離の知識。そして、外敵に屈しないための産業と組織の再構築だ。 俺が神の使徒という重責を偽装したのなら、その嘘を死ぬ気で「現実」に昇華させるしかない。
俺はゆっくりと立ち上がり、乱れた呼吸を整え、もう一度石の床に横たわった。意識は静かに、深く、心地よい闇の底へと沈んでいった。
***
翌朝、俺は自室の床に広げた羊皮紙——などではなく、現代から持ち込んだノートとボールペンに向かい合っていた。
神の威光を借りた以上、猶予はない。父上が寄せる期待は、そのまま俺の首に繋がれた縄の太さでもある。
「まずは、生き残るための最低限の足場固めだ」
ペンの走る音が、静まり返った石造りの部屋に小さく響く。 俺が書き出した課題は大きく分けて三つ。
一つ目は『衛生と医療』。 コンキスタドールが持ち込む天然痘などといった病原菌は、鉄の剣以上にこの大陸の人口を激減させた。だが、それ以前の問題として、この時代は基礎的な衛生観念が皆無に等しい。排水の処理、手洗いの習慣、創傷の消毒。これらを宗教的な儀式として組み込み、国家規模で徹底させる必要がある。
二つ目は『技術と物流』。 インカには車輪の概念が実用化されておらず、鉄器もない。文字を持たないキープによる情報管理も、複雑な補給線の維持には限界がある。現代から鉄製品や車輪の構造をそのまま持ち込むのは容易だが、重要なのは「なぜそれが機能するのか」を現地の職人に理解させ、自走可能な産業として根付かせることだ。俺一人が死んだら途絶える技術では意味がない。
そして三つ目は『情報と人の心』。 「太陽神の使徒」という威信は強力な武器だが、同時に諸刃の剣だ。権力闘争の火種になり得るし、神格化されすぎれば自由な行動を制限される。皇帝である父上の権威を脅かさず、かつ俺の発言力を不可侵のものとして確立するバランスを探らなければならない。
(……やるべきことが多すぎる)
頭が痛む。前世ではただの高校生だった俺が、一国の、それも文明の存亡を賭けた国家改革の舵を取らなければならないのだ。重圧で胃が押し潰されそうになる。
だが、怯えている暇はなかった。
重厚な扉が軋んだ音を立てて開く。入ってきたのは、昨日俺の行動を目撃して腰を抜かしていた侍女のキリだった。彼女は今や、俺を見るなり目に見えて全身を強ばらせ、深々と頭を下げて跪く。
「使徒様……朝のお食事をお持ちいたしました」
差し出された器には、蒸したトウモロコシと、癖のある匂いのする乾燥肉が盛られていた。 俺はノートを素早く隠すと、意識して声を低く、穏やかに整えた。
「ありがとう、キリ。……立ち上がりなさい」
「は、はい……!」
怯える彼女の目をまっすぐに見つめる。子供の身体とはいえ、ここにいるのは神の威光を背負った者としてふるまわなければならない存在だ。
「ひとつ、頼みがある。父上——皇帝閣下に伝えてほしい。神からの教えを果たすため、国中の優秀な石工と、薬草に詳しい者、そして広大な土地の管理を任されている者たちを集めてほしいと」
「使徒様のご命令を……皇帝閣下にお伝えすればよろしいのですね?」
「そうだ。これは我が国の未来を左右する最初の『神託』となる。一刻も早く取り計らうよう、お願いしてくれ」
キリは息をのみ、再び深く頭を下げると、弾かれたように部屋を飛び出していった。
誰もいなくなった部屋で、俺は自分の小さな手を見つめる。 ハッタリと知識、そして現代の資源。使えるものはすべて使う。綺麗なやり方ばかりでは生き残れない。泥をすすり、嘘を塗り重ねてでも、この文明を、ここに生きる人々を破滅の運命から引きずり下ろしてみせる。
俺はふたたびペンを握り直し、ノートに次の計画を書き進めた。




