第095話 サササノサ・三
白い板だけが画面に残った。
佐知はスマホを下ろしきらず、途中で止めた。指がケースの角を押している。力を入れすぎて、爪の下が少し痛い。
これは阿久津さんらしいか。
前よりいいか。
その声は、まだ続いていた。
丸藤第六ビルの前で、そんなことを考えている自分が、少しだけ滑稽だった。ビルはもう半分囲われている。入口には棒が渡され、作業員が工具を運び、ハルエは鍵を確認している。弓削は写らないように端へ寄っている。やえは学校の近くにいる。
それなのに、画面の中の線がまっすぐかどうかを気にしている。
佐知は息を吐いた。
「知らない」
声は小さかった。
弓削が「え、俺ですか」と言った。
佐知は首を横に振った。
「違います」
「よかった。知らないって言われるほどのことしてない」
「してますよ、たぶん」
「たぶんで傷つけられた」
ハルエが「邪魔しない」と言った。
弓削はまた黙った。
佐知はスマホを構え直した。
全部は入れない。
まず、白い板を大きく入れるのをやめた。入口の棒も全部は入れない。ビルの上も切れるままにした。喫茶ポニー跡のガラスの端と、古い外壁の汚れと、解体工事のお知らせ看板の下半分。そこに、白い板の端が少しだけ入る。
その外側に、まだ入りきらないものがいくつもあった。
ハルエが置いていくと決めた欠けたカップ。
弓削が五枚だけ選んだフライヤー。
やえが昨日、指をかけていたフェンス。
佐知が何度も開いては閉じた写真一覧。
それらは画面の外にある。
外にあるまま、佐知の手元だけが少し落ち着いた。
屋上は入らない。
やえもいない。
それでも、丸藤第六ビルだと分かる。
佐知はケースの角を押していた指の力を少し抜いた。
画面の中を、作業服の人の腕が横切った。
佐知は少し待った。
腕が消える。
朝の光が、白い板からガラスへ跳ねた。ガラスの汚れが薄く光り、テープの跡が少しだけ白く見えた。
爪の下には、さっき押しすぎた痛みがまだ残っていた。
佐知はシャッターを切った。
小さな音が鳴った。
それだけだった。
何も変わらない。
作業員は作業を続ける。ハルエは鍵をポケットにしまう。弓削は紙袋の持ち手をいじっている。白い板は白いままだし、ビルはまだそこにある。
佐知のスマホの中に、一枚増えた。
佐知は写真を開いた。
完璧ではない。
まず、少し傾いている。ガラスの反射が強く、喫茶ポニー跡の中はほとんど見えない。解体工事のお知らせの文字は途中で切れている。白い板は思ったより大きい。外壁の汚れは、写真にするとただの暗いしみみたいだった。
昔なら、すぐ撮り直していた。
撮り直して、それでも気に入らなくて、また撮り直していた。三枚目あたりで何を撮っているのか分からなくなり、最後には一番最初の写真も嫌になる。そういうことを、何度もやっていた。
今も、撮り直せる。
白い板はまだそこにある。作業員の動きが止まる瞬間を待てばいい。もっと右へ寄れば、看板の字が切れないかもしれない。少し上から撮れば、入口が見えるかもしれない。
でも、今の一枚が消える理由にはならなかった。
入口の端は写っている。
白い板も写っている。
ガラスのテープ跡も、ぎりぎり写っている。
昨日までは見えていたものと、今日もう隠れ始めたものが、同じ画面に入っている。
佐知は削除の印を見た。
ごみ箱は、いつもの場所にある。
昨日のやえの声が浮かんだ。
撮ったなら、消さないでください。
佐知は消さなかった。
画面を閉じずに、もう一度写真を見る。傾いている。やっぱり傾いている。直したい。撮り直せば、もう少しましになるかもしれない。
佐知はカメラに戻った。
もう一枚撮ろうとして、やめた。
撮り直したいのか、消す理由を探したいのか、少し分からなかった。
「撮れた?」
ハルエが聞いた。
佐知はスマホを少し下げた。
「撮りました」
「そ」
「それだけですか」
「何か言うと、面倒でしょ」
「そうですね」
「じゃあ、それだけ」
ハルエはビルの入口を見た。白い板の間から入る朝の光が、ハルエの横顔に当たっている。佐知はそれも撮れると思ったが、撮らなかった。
弓削が、少し離れたところから言った。
「俺、写ってないですよね」
「写ってません」
「残念」
「さっき写らない方がいいって言いました」
「人間、数分で変わるんで」
「変わりすぎ」
弓削は紙袋を持ち上げた。
「じゃあ、俺はそろそろ。最後に来た人っぽくなれたので」
「なれてました?」
「自己評価では」
「それでいいなら」
「だいたいそれで生きてます」
ハルエが「危ないね」と言った。
弓削は笑って、入口の棒の下をくぐった。白い板の向こうへ出ると、すぐに通行人に紛れて見えにくくなった。
佐知はスマホを開いたまま、やえのトーク画面を出した。
最新のメッセージは、朝のものだった。
学校の近くまで行ってみます。ビル、そっちはまだ見えます?
その下に、送信欄がある。
写真を選ぶ。
さっき撮った一枚が、最新の場所にある。小さな四角の中では、傾きも白い板の大きさもよく分からない。ただ、丸藤第六ビルの入口と看板が小さく入っている。
佐知は写真を添付した。
送る相手は一人だけだった。
母ではない。
ハルエでもない。
弓削でもない。
どこかに載せるわけでもない。
やえ。
その名前だけが、画面の上に出ている。
送信ボタンが出る。
指が少し止まった。
誰かに見せるために撮ったのか。
そう聞かれると、違う気がする。
でも、誰にも見せないと決めて撮ったわけでもない。
佐知がやったのは、ただ、やえの名前を選んだだけだった。
佐知は送信ボタンを押した。
写真が送られる。
少し遅れて、文字を打った。
撮った
送る。
既読は、まだつかない。
佐知は画面を閉じなかった。
返信が来ないままでも、写真は送られていた。




