第094話 サササノサ・二
入口へ戻ると、弓削がいた。
作業用の棒の向こう側で、片手を上げている。今日はギターケースもスピーカーも持っていない。コンビニの袋もない。小さな紙袋だけを提げていた。
「おはようございます」
弓削は、少しだけ声を抑えて言った。
「声、小さいですね」
佐知が言うと、弓削は白い板のほうを見た。
「工事現場に遠慮してます」
「工事現場、遠慮されても困ると思います」
「じゃあ普通にします」
弓削はすぐ声を戻した。
作業服の男が入口の棒を上げ、弓削も中へ入った。紙袋が足に当たり、かさ、と鳴る。中身は見えない。たぶん、昨日持ち帰ると言っていたフライヤーか、別の何かだろう。
ハルエが喫茶ポニー跡から顔を出した。
「あんたも来たの」
「来ました」
「何しに」
「最後に来た人っぽくなりに」
「邪魔にならないで」
「なります?」
「なりそう」
「努力します」
「邪魔にならない努力をしな」
弓削は「そっちか」と言った。
佐知は少し笑い、スマホを見た。
やえからの通知はない。
昨日の夜も、朝も、連絡はなかった。佐知からも送っていない。学校へ行くかもしれないし、行かないかもしれない。昨日の屋上で、やえはそう言った。
今日、やえはいない。
そのことが、先に引っかかった。
「貝塚さんは」
弓削が聞いた。
佐知は首を横に振った。
「まだ」
「まだ」
「来るかも分からない」
「学校ですかね」
「分からない」
弓削は「そっか」と言った。それ以上、深く聞かない。そういうところだけ、弓削は妙に楽だった。
佐知のスマホが震えた。
画面に、やえの名前が出る。
佐知は少しだけ息を止め、通知を開いた。
学校の近くまで行ってみます。ビル、そっちはまだ見えます?
最後だけ、少し雑だった。
佐知は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
学校の近く。
行く、ではない。
近くまで行ってみる。
それでも、昨日より少し遠い場所へ行っている。佐知の知らない道を、やえが歩いている。校門まで行くのか、途中で曲がるのか、コンビニで止まるのか、佐知には分からない。
ビル、そっちはまだ見えるか。
見える。
たぶん、まだ。
そう答えればいいだけなのに、少しだけ背中を押された気がした。
返事を打とうとして、指が止まった。
行ってらっしゃい、は違う。
大丈夫、も違う。
無理しないで、はもっと違う気がした。やえは無理をしているのかもしれないし、していないのかもしれない。学校の近くまで行くことが、無理なのか、普通なのか、佐知が決めることではない。
佐知は結局、文字を打たなかった。
代わりに、画面を伏せずに持ったままにした。
「やえから?」
ハルエが聞いた。
佐知は頷いた。
「学校の近くまで行くって」
「そう」
「ビル、そっちはまだ見えるかって」
ハルエは鼻で笑った。
「雑に聞くね」
「ですね」
弓削が紙袋を持ち上げた。
「じゃあ、俺、写らない方がいいっすよね」
佐知はスマホから顔を上げた。
「写しません」
「即答」
「写りたいんですか」
「足くらいなら」
「今日は足もいりません」
「俺の出番、終了早い」
ハルエが「始まってもないよ」と言った。
弓削は納得したような顔で、入口の横に下がった。邪魔にならない努力をしているらしい。紙袋を壁に寄せ、白い板にぶつからないように立つ。
佐知は外へ出た。
入口の棒の前に立ち、スマホのカメラを開く。
画面の中に、丸藤第六ビルが入る。
入る、と思った。
けれど、上が切れる。
少し下がると、白い板が大きく入りすぎる。右へ動くと、看板の文字が斜めになる。左へ動くと、コーンが手前で赤く目立つ。さらに下がると、歩道を通る人が入る。
全部を入れようとすると、うまくいかない。
丸藤第六ビルは、もともと写真に収まりのいい建物ではなかった。細長く、古く、入口は暗い。看板は小さく、窓は汚れていて、配管は中途半端な位置を走っている。綺麗な角度を探そうとすると、すぐに白い板か電柱が邪魔をする。
佐知は画面を見ながら、一歩ずつ動いた。
上が切れる。
看板が読めない。
白い板が白すぎる。
コーンが邪魔。
人が入る。
どこを見ても、何かが違う。
少ししゃがむと、白い板が大きくなりすぎた。
立ち上がると、入口の暗さが消えた。
斜めから撮ると、古い外壁の汚れはよく見えたが、喫茶ポニー跡のガラスがただの黒い四角になる。正面に戻ると、看板の字ばかりが目立つ。ビルを撮りたいのか、工事のお知らせを撮りたいのか、分からなくなる。
佐知は一度カメラを閉じた。
閉じると、画面に自分の顔が薄く映った。眉間にしわが寄っている。やえに見られたら、また変な分類をされそうな顔だった。
佐知はもう一度カメラを開いた。
「阿久津さん、すごい真剣な顔」
弓削が言った。
佐知は画面から目を離さない。
「喋らないでください」
「写らないのに邪魔してる」
「音で」
「音も写る時代が来たら困るな」
「もう録れます」
「そうだった」
弓削は小さく黙った。
ハルエは喫茶ポニー跡の戸の前で、鍵を確認している。作業服の男が、白い板の向きを少し変えた。画面の中の光がまた変わる。
佐知は、もう一度構え直した。
全部は入らない。
分かっているのに、まだ全部を入れようとしている。
入口も、看板も、白い板も、喫茶ポニー跡のガラスも、上の窓も、屋上も。やえが昨日立っていたフェンスは、下からは見えない。欠けたカップも見えない。ハルエの手も、弓削の紙袋も、写真の外へ出ていく。
それでも、画面の中に入れようとする。
昔の声が、少し遅れて来た。
これは阿久津さんらしいか。
前よりいいか。
声は、はっきり誰のものでもなかった。
小森谷先生の声にも似ていない。学校の誰かでも、母でもない。たぶん、何度も自分で使っていた声だった。撮る前に出てきて、画面の隅を指でなぞるように、いちいち点をつける。
これは阿久津さんらしいか。
前よりいいか。
佐知はスマホを下ろしかけた。
画面から、丸藤第六ビルが少し外れる。
白い板だけが、やけに明るく残った。




