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第093話 サササノサ・一

朝、佐知は目覚ましの一分前に目を開けた。


鳴る前のスマホを止めると、画面に設定していた時間だけが残った。昨日は開かなかったアラームの画面。結局、寝る前に設定した。設定してからも、何度か見直した。


六時四十分。


早すぎるわけではない。けれど、いつもの佐知には少し早い。


カーテンの隙間は白く、部屋の空気はまだ夜の匂いを少し残していた。畳の上に置いた鞄は、昨日と同じ場所にある。中には財布、鍵、折れた書類、スマホの充電器。写真を撮るための特別なものは何もない。


スマホだけを手に持って、佐知はしばらく座っていた。


やえからの新しい連絡はない。


昨日の最後のやり取りも、画面には出ていない。通知がないだけで、少し静かすぎる気がした。


佐知は立ち上がった。


顔を洗い、髪を結び、パンを半分だけ食べた。味はあまりしない。冷蔵庫の麦茶を飲むと、口の中だけが急に朝になった。


外へ出る。


駅へ向かう人の流れとは、少し逆だった。通勤の人たちが歩く方向から外れて、佐知は丸藤第六ビルへ向かう。朝の店はまだシャッターを半分閉めていて、コンビニだけがいつもの明るさで開いていた。


丸藤第六ビルの角が見えたところで、佐知は足を止めた。


仮囲いが始まっていた。


昨日、壁に立てかけられていた白い板が、今日は歩道側に並んでいる。まだ全体を囲ってはいない。入口の前だけが細く開いていて、作業員が中へ出入りできる幅が残されている。コーンは四つに増え、黄色と黒の棒がその間に渡されていた。


解体工事のお知らせの看板は、昨日より少し内側に寄せられている。


そのせいで、ビルの入口が半分隠れていた。


佐知はスマホを出した。


画面をつける。


カメラはまだ開かない。


白い板は朝の光を受けて、目に痛いほど明るい。丸藤第六ビルの外壁は、いつもより暗く見えた。灰色の壁、古い看板の跡、細い配管、窓の汚れ。白い板があるだけで、今まで気にしなかった汚れが急に古くなる。


「入るなら、今のうちだよ」


作業服の男が言った。


佐知は少し遅れて頭を下げた。


「すみません」


「関係者?」


「たぶん」


言ってから、自分でも曖昧だと思った。


作業服の男は、それ以上聞かなかった。入口の棒を少し持ち上げ、佐知が通れるようにする。佐知はその下をくぐった。棒が戻る音が、背中で軽く鳴る。


ビルの中は、いつもより狭かった。


入口が細くなっただけなのに、階段までの距離が変わった気がする。足元には養生のシートが少し敷かれていた。階段の端に、作業用のテープが貼られている。いつもの埃の上に、今日の準備が重なっていた。


喫茶ポニー跡の戸は開いている。


中に、ハルエがいた。


カウンターの上には何もない。箱も、新聞紙も、コースターも、ほとんど片付いている。欠けたカップだけが、奥の棚の下に置かれていた。昨日と同じようで、昨日より置き場所が低い。


「早いね」


ハルエが言った。


「ハルエさんも」


「私は鍵あるから」


「鍵があると早起きになるんですか」


「ならない。年」


「便利ですね、年」


「不便のほうが多いよ」


ハルエは、壁際の棚を開けたり閉めたりしていた。何かを探しているというより、もう何も残っていないことを確かめているように見える。棚の中には、薄い埃と、丸い跡だけが残っていた。


「最後の確認ですか」


佐知が聞くと、ハルエは「そう」と答えた。


「忘れ物とか」


「忘れたら忘れたで、置いていく」


「いいんですか」


「だめでも、もうだいたい遅い」


ハルエは棚を閉めた。木の扉が軽く鳴る。音は、前より乾いていた。


佐知はスマホを握ったまま、店内を見た。


全部なくなったわけではない。


カウンターの傷。


床の椅子の跡。


ガラスのテープの曇り。


棚の下の欠けたカップ。


外から入る白い板の光。


それらは残っている。けれど、店だった頃のものを説明するには少なすぎる。少なすぎるのに、全部撮ろうとすると、多すぎる。


佐知はカメラを開こうとして、止めた。


「撮るの」


ハルエが聞いた。


佐知は画面を見たまま、「たぶん」と答えた。


「たぶんか」


「まだ、どこを撮ればいいか分からないです」


「全部は無理でしょ」


「はい」


「じゃあ、無理でいいでしょ」


ハルエは雑巾をひとつ拾い上げ、バケツへ投げた。


「どうせ全部は入らない」


言い方は軽かった。


名言みたいに言う気は、たぶんない。雑巾はバケツの縁に当たり、水は入っていないので、ただ布が落ちる音だけがした。


佐知はスマホを握り直した。


全部は入らない。


分かっている。


分かっていても、全部を入れたくなる。入口、階段、喫茶ポニー跡、屋上、看板、白い板、欠けたカップ、ハルエの手、弓削のフライヤー、やえが昨日立っていたフェンスの前。入れなかったものは、なかったことになる気がする。


でも、入れようとしたら、たぶん何も写らない。


ハルエは欠けたカップの位置を少し直した。


「それ、そこなんですね」


「うん」


「見つけにくい」


「見つける人いないからね」


「じゃあ何で」


「置き場所がそこだっただけ」


佐知は、低い棚の下のカップを見た。


持っていかなかったもの。


捨てなかったもの。


置いていくもの。


スマホの画面が暗くなった。佐知は指で起こした。


まだ撮らない。


けれど、今日は撮らないとは思わなかった。


外で、金属の棒がコーンに当たる音がした。作業が少しずつ始まっている。朝のビルは、もう昨日のビルではない。


ハルエは戸のほうへ歩きながら言った。


「撮るなら、邪魔にならないうちにね」


「急かしてます?」


「作業員に怒られるの面倒」


「理由が雑」


「雑なほうが動きやすいでしょ」


佐知は返事をしなかった。


スマホを手に、入口のほうへ向かう。白い板の光が、ガラスに反射していた。


全部は入らない。


スマホの角が、手のひらに少し食い込んでいた。


その雑な言い方だけが、思ったより残った。

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