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第092話 ナクナルノナ・四

屋上の風は、夕方になるにつれて少し冷えた。


下から聞こえる車の音も、人の声も、昼より薄い。看板の白い面だけが、まだ明るく見える。ビルの影は道路へ伸び、仮囲い用の板の端を暗くしていた。


佐知はスマホを手に持ったままだった。


アラームはまだ設定していない。カメラも開いていない。画面は消えている。それでも、鞄にしまわないでいるだけで、何かを保留している感じがした。


やえはフェンスにもたれず、少し離れて立っている。


二人とも、下を見ている。


「明日、何時に始まるんですかね」


やえが言った。


「看板には八時って書いてあった」


「読んだんですか」


「一応」


「真面目」


「字があると読む」


「損するタイプ」


「分かる」


やえは小さく笑った。


佐知はスマホをひっくり返し、ケースの背を見た。角に小さな傷がある。いつついたのか分からない。落とした記憶は何度もあるので、どれかだろう。


「阿久津さん」


「はい」


「撮っても撮らなくてもいいです」


佐知は、やえのほうを見た。


やえは下を見たままだった。声はいつもの軽さに近い。けれど、言葉の置き方だけが少し違う。冗談の前置きではなかった。


「それ、前にも聞いた」


「大事なので」


「二回言うやつ?」


「今回はちょっと違います」


やえはフェンスの網に指をかけた。網が少し鳴る。


「撮っても撮らなくてもいいです」


二回目は、一回目よりゆっくりだった。


佐知はスマホを握り直した。


撮ってもいい。


撮らなくてもいい。


その言葉は、楽なはずなのに、楽ではなかった。どちらでもいいと言われると、どちらにするかを自分で持たなければならない。撮らないなら、撮らないと自分で決める。撮るなら、撮ると自分で決める。


前は、それが嫌だった。


誰かに頼まれたから撮る。


係だから撮る。


上手く撮れそうだから撮る。


見せられそうだから撮る。


そういう理由があれば、自分の手から少し離せる。失敗しても、理由のせいにできる。


明日は、たぶん違う。


誰も、佐知に撮れとは言わない。


やえはフェンスの網から指を外しかけて、また同じ場所にかけた。爪の先が少しだけ白くなる。


「でも」


やえが続けた。


佐知は息を止めるほどではなく、少しだけ浅くした。


「でも、撮ったなら、消さないでください」


やえの声は、珍しく頼む形をしていた。


強くない。


明るくごまかしてもいない。


ただ、そこに置かれた。


佐知はすぐに返事をしなかった。


消さないでください。


これまで、消すなと言われたことはあまりない。見せて、撮って、撮らないの、上手い、前のほうが、そういう言葉はいくつもあった。けれど、撮ったなら消さないで、は、少し違う場所から来る。


「見せなくても?」


佐知が聞いた。


やえは振り向いた。


「はい」


「送らなくても?」


「はい」


「変な写真でも?」


「阿久津さんの変の基準、厳しそうなので、そこは信用してないです」


「ひどい」


「でも、はい」


佐知はスマホの画面を見た。黒いままの表面に、やえの輪郭が薄く映っている。顔までは分からない。フェンスの線と、空の色と、佐知の指が重なっている。


撮ろうと思えば、今も撮れる。


屋上。


フェンス。


やえの横顔。


下の看板。


給水塔の錆。


なくなる前の日。


けれど、佐知はカメラを開かなかった。


今日撮ると、明日撮るかもしれないものが、少し変わる気がした。そんな理屈が正しいのかは分からない。ただ、今は撮らずに見ていたかった。


「消さないって、約束ですか」


佐知が聞くと、やえは少し考えた。


「お願いです」


「約束より軽い?」


「重い約束すると、破ったとき面倒なので」


「お願いは破っても面倒じゃない?」


「面倒です」


「結局」


「でも、こっちのほうが少し逃げられます」


やえはそう言って、フェンスから手を離した。


逃げられるお願い。


変な言い方だと思った。


でも、佐知には少し分かった。


完全に縛る言葉ではなく、完全に放す言葉でもない。手を伸ばして、掴む前に止めているような言葉。


「分かりました」


佐知は言った。


「軽いですね」


「重く言うと嘘っぽい」


「それはそう」


やえは頷いた。


しばらく、二人とも話さなかった。


佐知はスマホを鞄にしまおうとして、やめた。手に持ったまま、フェンスの近くへ行く。やえは少し横へずれ、佐知が並べる分だけ場所を空けた。


肩は触れない。


近いが、近すぎない。


下では、作業服の人が一人戻ってきて、白い板の位置を確かめていた。板を叩く音が、屋上まで薄く届く。看板の前を自転車が通り、ベルが一度鳴った。


喫茶ポニー跡のガラスは、上からだと反射して中が見えない。紙ナプキンの跡も、テープの曇りも見えない。ただ、入口のガラスが少し汚れているのだけが分かる。


「下、あんまり見えないですね」


やえが言った。


「屋上なのに」


「屋上って、何でも見えるふりしますよね」


「ふりなんだ」


「見えないところ多いです」


佐知はフェンスの網越しに下を見た。


たしかに、見えないところのほうが多い。


ハルエが置いていくと決めた欠けたカップは見えない。弓削が捨てたフライヤーの紙袋も見えない。階段の埃も、ガラスのテープ跡も、カウンターの箱も見えない。


それでも、見えるものはある。


白い看板。


仮囲いの板。


傾いていないコーン。


道路の影。


ビルの外壁の汚れ。


給水塔の影。


フェンスにかかるやえの指。


佐知は、それらを一つずつ見た。


スマホは手にある。


撮らないまま。


やえも撮らなかった。


いつもなら、雲でもフェンスでも、変な影でも撮る。今日はスマホを出しもしない。ポケットに入れたまま、下を見ている。


「やえは撮らないの」


佐知が聞くと、やえは「今日は」と答えた。


「今日は」


「見ときます」


「珍しい」


「珍しいこともあります」


「学校行くかもしれない日だから?」


やえは少し黙った。


「それも、あります」


佐知はそれ以上聞かなかった。


聞かないことが、見ないふりにならないようにしたかった。けれど、聞けばいいわけでもない。やえは、学校へ行くかもしれないし、行かないかもしれない。そのままの状態で、フェンスの前に立っている。


佐知も、大学へ戻るかどうか、まだ決めている途中だ。


二人とも、どこかへ行くかもしれない。


行かないかもしれない。


下では、作業服の人が白い板を元の位置へ戻し、コーンの向きを直した。それだけで、明日の準備が少し進んだ顔になった。


空は、だんだん暗くなる。


屋上の床も、給水塔の脚も、フェンスの網も、同じ色に寄っていく。


佐知はスマホを見た。


画面をつける。


アラームのアイコンが見えた。指が一度そこへ行きかけ、止まる。


今ではなくてもいい。


でも、忘れない。


佐知は画面を消し、スマホを鞄に入れた。


やえは何も言わなかった。


二人は屋上で何も撮らなかった。


フェンスを握っていた指が、あとから少し重かった。

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