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第091話 ナクナルノナ・三

やえはフェンスから手を離し、給水塔の脚のほうへ歩いた。


屋上のコンクリートには、前に雨がたまった跡が薄く残っている。丸い染み。ひびの線。誰かが置いたまま忘れた小さな結束バンド。風で動くほど軽くはないのに、踏むとぱき、と折れそうな顔をしていた。


佐知はそれを見た。


撮れる、と思った。


思っただけで、スマホは出さなかった。


やえは給水塔の脚にもたれた。正確には、もたれようとして、錆びているところに気づき、少し離れた。


「危ない」


「今さらですか」


「安全第一らしいので」


「看板に従うタイプ」


「看板、強いじゃないですか」


佐知はフェンスの近くに立ったまま、下を見た。


白い板は、夕方の光を受けて少し黄色くなっている。入口の横に立てかけられていたものが、一本だけ道路側へ動かされていた。まだ工事現場というほどではない。ただ、元のビルでもない。


途中。


そういう状態は、見ていると少し落ち着かない。


「大学は」


やえが言った。


佐知は顔を上げた。


やえは、さっき佐知がしたのと同じくらい普通の声で聞いた。責める感じはない。心配というほど柔らかくもない。投げた小石が足元に転がってきたような聞き方だった。


「大学」


「はい」


「今聞く?」


「さっき学校聞かれたので」


「仕返し」


「会話の平等です」


「平等って面倒だね」


「だいたい面倒です」


佐知はフェンスの網に指をかけた。金属は少し熱い。昼の熱がまだ残っている。


大学のことは、前より遠くなくなった。


改札を通った。学生支援課で相談した。母に途中だと返した。それでも、遠い。遠いというより、近づくと形が変わる。復学、休学継続、退学。言葉だけは並んでいるが、どれを選んでも自分が少し違う形になる気がする。


「大学、戻るかどうか、まだ決めてる途中」


言うと、思ったより声が小さかった。


やえは「はい」とだけ返した。


「はい、だけ?」


「じゃあ、えらいですねって言いましょうか」


「言われたくない」


「ですよね」


やえはポケットからスマホを出した。画面をつける。通知を見たのか、すぐに伏せた。写真を撮る動きではない。


佐知はその手元を見た。


「学校の通知?」


「違います」


「違うんだ」


「天気です」


「天気、伏せる?」


「晴れって言われると腹立つ日もあるので」


佐知は少し笑った。


やえも少しだけ口の端を動かした。


話したいことと、話さなくていいことが、屋上の風の中で分かれずに混ざっている。学校も大学も、簡単な答えはない。だからといって、何も言わないと、何もないみたいになる。


佐知は鞄の外ポケットに触れた。


スマホの角が指に当たる。


昨日も、今日も、何度もその角に触っている。撮るつもりで出したときも、出さなかったときもある。見せようとしてやめたときもある。


「明日」


やえが先に言った。


佐知は手を止めた。


「明日、撮るんですか」


下で、車が一台通った。看板の足元の重りが、車の風で少し揺れたように見えた。


佐知は鞄から手を離した。


「分からない」


「分からない」


やえが同じ言葉を返す。


「本当に、まだ決まってない」


「そうですか」


「そうです」


やえはスマホをポケットに戻した。伏せた画面は、佐知には見えないままだった。


「阿久津さんの分からないって、種類ありますよね」


「何それ」


「本当に分からないやつと、分かってるけど言いたくないやつと、言ったら決まるから嫌なやつ」


「分類しないで」


「趣味です」


「悪趣味」


「たまに言われます」


佐知はフェンスの向こうを見た。


明日、撮るのか。


撮らないのか。


撮るなら、何を撮るのか。


全部は無理だ。ビルの外側、看板、白い板、階段、屋上、喫茶ポニー跡、欠けたカップ、ガラスのテープ跡。どれを入れても、どれかが外れる。全部を入れようとしたら、きっと何も見えなくなる。


昔なら、そこで止まっていた。


何を撮ればいいか分からない。


見せられるかどうかも決められない。


そう言って、カメラを閉じていた。


今も、はっきりしない。


ただ、そのままでも、明日ここへ来ることはできる気がした。


そのことを、言いたくなかった。


言うと、明日の自分が逃げにくくなる。


やえは佐知の顔を見ていた。


「分からないって顔じゃないです」


「どんな顔」


「明日、目覚まし早めにかけそうな顔」


佐知は眉を寄せた。


「そんな顔ある?」


「あります」


「嘘」


「半分」


「半分多い」


やえは少し笑って、フェンスのほうへ戻った。下をのぞき、看板を見ている。顔は横向きで、佐知からは目が見えない。


「撮るなら、朝ですか」


「分からないって言った」


「じゃあ、分からない朝」


「勝手に作らないで」


「便利ですよ、分からない朝」


「どこが」


「起きられなくても言い訳になる」


「だめじゃん」


「だめです」


やえはそれを認めた。


佐知はスマホを出した。


写真を撮るためではない。時間を見るためだった。画面には、夕方に近い数字が出ている。明日の天気も、小さく表示されていた。晴れ。やえが腹立つと言った晴れ。


通知欄には、母からの新しい連絡はなかった。大学からのメールも増えていない。何も来ていない画面なのに、佐知は少し長く見てしまった。


誰かに押されていないなら、動かなくてもいい。


そう思うと、余計に動かない理由が見つからなくなる。


佐知はアラームの画面を開きかけて、やめた。


やえが見ている気がしたからではない。


まだ、そこで決めるのが嫌だった。


でも、スマホを閉じても、明日が消えるわけではない。


画面を消すと、黒い表面に屋上の空が少し映った。佐知の指も、フェンスの線も、薄く重なる。


やえが言った。


「決めてるじゃないですか」


「決めてない」


「じゃあ、決めかけてる」


佐知は答えなかった。


決めかけている、という言い方は、逃げ道が狭い。


けれど、閉じてはいない。


佐知はスマホを鞄に戻さず、手に持ったままにした。


撮らなかった。


ただ、明日の朝のアラームの場所だけ、指が覚えていた。

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