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第090話 ナクナルノナ・二

弓削は二階から、紙の束を抱えて降りてきた。


足音より先に、紙がこすれる音がした。乾いた、軽い音。階段の角に束の端をぶつけたらしく、「あ」と短く声が落ちる。


「大丈夫ですか」


佐知が聞くと、弓削は紙の束を持ち直した。


「紙は大丈夫です」


「本人は」


「本人も紙くらいの強度はあります」


やえが「弱いですね」と言った。


弓削は否定しなかった。


束は古いフライヤーだった。色の濃いものは端が白く擦れ、白かったものは全体に黄色くなっている。日付はどれも古い。ライブハウスの名前、バンド名、手書き風のロゴ、読みにくい英字。写真のようなものもあるが、印刷が荒くて顔まではよく分からない。


佐知はそれを見て、前に弓削が嫌がった一枚を思い出した。


まだやってる人みたいになる。


あのときの声は軽かったが、手は早かった。やえが撮ろうとしたフライヤーを、弓削はすぐに避けた。


今日は、自分で持ってきている。


「それ、全部持って帰るんですか」


佐知が聞くと、弓削は束をカウンターに置いた。


どさ、というほど重くはない。けれど、紙は紙の重さで広がり、端が少し滑った。


「全部は無理ですね」


「量の問題?」


「心の問題です」


やえが「急に面倒な言い方」と言った。


「紙なのに、なんか重いんすよ」


「ちょっと分かるのが嫌です」


「分かるんだ」


やえは答えず、フライヤーの端を指で揃えた。


ハルエはカウンターの奥で、箱にテープを貼っている。ガムテープを引く音が、会話の間に入った。テープは途中で斜めに折れ、ハルエが舌打ちをする。


「弓削、それ持ってくの」


「少しだけ」


「少しってどれ」


「今から決めます」


「早く決めな」


「人生の選択に急かしが入った」


「フライヤーで人生ぶるな」


弓削は「はい」と言い、束を三つに分け始めた。


弓削は、持って帰るものと、捨てるものと、まだ決めないものを、端からざっくり分けていく。


昨日から、何でもその三つになる。


佐知はカウンターの端に立ち、弓削の手元を見た。フライヤーの中には、同じものが何枚もある。色あせ方が違うだけで、日付も場所も同じだ。弓削はその中から一枚だけを抜き、鞄に入れる。


「同じの、いっぱいありますね」


「配るつもりだったんでしょうね」


「でしょうねって、自分のですよね」


「昔の俺と今の俺は、同一人物かどうか怪しいので」


やえが「逃げ方が雑」と言った。


「そこも同一人物っぽい」


「ひどいな」


弓削は笑って、また一枚選んだ。


佐知はスマホを出さなかった。


撮ってもいい場面ではあった。古い紙の束。少しだけ抜かれるフライヤー。持って帰るものと捨てるものの境目。前なら、撮りたいと思って、でも撮れなかったかもしれない。


今は、撮りたいと思う前に、ただ見ていた。


弓削が選んだフライヤーは、全部で五枚だった。


思ったより少ない。


残りは、紐でまとめ直される。捨てるものの箱には入らず、床に置かれた大きな紙袋へ入った。紙袋には、古い雑誌やメニューの試し刷りも入っている。


「それでいいんですか」


佐知が聞くと、弓削は紙袋の口を軽く折った。


「よくはないですけど」


「けど」


「今日は、ちょっと捨てる日」


弓削は、自分で言って少し嫌そうな顔をした。


「いいこと言ったみたいになった」


「なってないです」


やえが即答した。


「安心した」


「安心の基準がおかしい」


ハルエがテープを切りながら、「捨てるなら下の集積所」と言った。


「了解です」


弓削は紙袋を持ち上げた。袋は軽そうに見えて、底のほうで紙が詰まっている。持ち手が少し伸び、弓削は慌てて底を支えた。


「手伝いますか」


佐知が聞くと、弓削は首を横に振った。


「これは自分で捨てた感がほしいので」


「面倒ですね」


「面倒です」


認める声が軽かった。


弓削は紙袋を抱えて出ていった。階段を降りる音が、少しずつ遠ざかる。


店内に残ったフライヤーの匂いが、まだ薄く漂っていた。紙と埃と、古いインクのにおい。佐知はそれを吸って、少しだけ鼻の奥が乾くのを感じた。


やえが、カウンターの上に残った五枚のフライヤーを見た。


「持って帰るんですね」


「うん」


「捨てる日なのに」


「ちょっと、だからじゃない」


佐知が言うと、やえは「なるほど」と言った。納得した顔ではない。納得したことにした顔だった。


ハルエが箱を指で叩いた。


「上、行くなら行っといで」


「何でですか」


やえが聞いた。


「あんたたち、下にいると邪魔」


「理由がひどい」


「正直でしょ」


「正直はだいたいひどいです」


やえは雑巾を洗い、バケツの縁にかけた。佐知は鞄を持つ。スマホは鞄の外ポケットに入れてある。すぐ出せる位置だが、出さないままにした。


二人で階段を上がる。


踊り場の窓から、外の看板が見えた。白い板は昨日より一枚増えている。作業服の人はいない。コーンだけがきちんと並んで、かえって落ち着かない。


「看板、増殖してますね」


やえが言った。


「あれ、繁殖するんだ」


「工事看板って、気づくと増えてません?」


「増える」


「やっぱり」


やえは階段を一段飛ばしで上がりかけて、途中でやめた。いつもより少し足が重そうだった。佐知はそれに触れず、同じ速度で上がった。


屋上の扉は、いつものように少し固い。


やえが先に押し、開かなかった。佐知が横から手を添えると、ギ、と鳴って開いた。


「共同作業っぽい」


やえが言う。


「扉を開けただけ」


「夢がない」


「虫の夢の次は扉の夢?」


「記憶力いいですね」


「嫌なことほど」


屋上に出ると、風が少し強かった。


給水塔の脚の影が、コンクリートの上で長く伸びている。フェンスの向こうの道路に、白い看板の上端が見えた。下から見たときより、ずっと薄い板に見える。


やえはフェンス際へ行った。


スマホを出すかと思ったが、出さなかった。両手をフェンスの網にかけ、下を見ている。指先が網の形に少し曲がる。


佐知は近づきすぎない場所に立った。


「今日、学校は」


聞くつもりのない言葉が出た。


やえは振り向かなかった。


「聞き方が普通」


「すみません」


「謝るほどじゃないです」


風が、やえの髪の端を少し持ち上げた。


「学校、行くかもしれません。行かないかもしれません」


佐知は、すぐに返事をしなかった。


下から、紙袋を動かす音が小さく聞こえた。弓削が集積所へ行ったのかもしれない。


やえはフェンスから手を離さない。


「どっちですかって聞かないんですか」


「聞いたら、どっちか決まるの」


「決まりません」


「じゃあ聞かない」


やえは少しだけ笑った。


「阿久津さん、たまに賢い」


「たまにか」


「頻繁ではないです」


佐知はフェンス越しに、下の白い看板を見た。


行くかもしれない。


行かないかもしれない。


そのままの言葉が、風で動かず、屋上に残った。

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