第089話 ナクナルノナ・一
丸藤第六ビルの前に、白い看板が立っていた。
昨日まではなかったものだ。
歩道の端に、細い金属の足で立っている。風で少し揺れるたび、看板の下の重りが小さく擦れた。表には、解体工事のお知らせ、と黒い字で書かれている。日付、会社名、作業時間、連絡先。下のほうには、安全第一の文字もあった。
安全第一。
古いビルの前に置かれると、少し遅い気がした。
佐知は足を止めた。
ビルの入口の横には、仮囲い用らしい白い板が数枚、壁に立てかけられている。まだ囲ってはいない。ロープでまとめられ、端に青い養生テープが巻かれていた。コーンが二つ置かれ、その片方だけが少し傾いている。
通り過ぎる人は、あまり見ない。
ただ、佐知は見た。
看板の字を、一行ずつ読んだ。
九月。
解体。
作業。
数字は冷たい。字も冷たい。けれど、看板の足元には、昨日誰かが落としたらしい乾いた葉が一枚挟まっている。そういうところだけ、妙に生活の続きみたいだった。
佐知はスマホを出しかけた。
指が鞄の口に入る。
画面をつければ撮れる。看板とビル。まだ白い板が立てかけられているだけの入口。コーンの傾き。工事が始まる前の、まだ始まっていない顔。
撮らなかった。
鞄の口を閉じ、ビルへ入る。
階段の前に、薄い埃がたまっていた。昨日までは何度も人が出入りしたせいで目立たなかっただけかもしれない。佐知が一段上がると、靴底が乾いた音を立てた。
喫茶ポニー跡の戸は開いていた。
中から、新聞紙を丸める音がする。
「おはようございます」
佐知が言うと、ハルエがカウンターの向こうから顔を上げた。
「もう昼」
「昨日も言われました」
「今日は昨日より昼」
「時間って増えるんですか」
「気分で」
ハルエはそう言って、手元に視線を戻した。
カウンターの上には、箱が三つ並んでいる。ひとつは食器、ひとつは紙もの、ひとつは何を入れるのか決まっていないらしい。箱の側面には、やえの字で「わかんない」と書かれた紙が貼ってあった。
佐知はそれを見た。
「箱の名前、雑ですね」
「あの子が貼った」
「でしょうね」
「合ってるからいいよ」
箱の中には、古いスプーン、砂糖入れの蓋だけ、茶色くなったコースター、短い鉛筆が入っていた。たしかに、わかんないものばかりだった。
店内は昨日よりさらに店ではなくなっていた。
テーブルは壁際に寄せられ、椅子は重ねられている。紙ナプキンはもうガラスから剥がされ、跡だけが白く残っていた。スピーカーもない。弓削が持ち帰ったのか、別の場所に置かれたのか、床の空きだけが少し広い。
それでも、カウンターの奥には、まだカップがあった。
ハルエは、そのひとつを新聞紙で包んでいる。白いカップ。縁が少し厚く、底に茶色い染みがある。指の腹で底を確かめ、紙の端を折り込む。
「最後ですか」
佐知が聞くと、ハルエは「持っていく分はね」と言った。
「全部じゃないんですか」
「全部は持っていかない」
「捨てるんですか」
「置いていくのもある」
佐知はカウンターの端を見た。
欠けたカップが、まだそこにあった。開けとく日に佐知が撮ったものだ。今日は光が違うせいか、欠けたところが昨日よりはっきり見える。中は空で、乾いている。皿はついていない。
「それ、置いていくんですか」
「うん」
「持っていけばいいのに」
「持っていっても使わない」
「使わなくても」
言ってから、佐知は少し止まった。
使わなくても持っているものは、いくつもある。弓削のフライヤーも、佐知の休学書類も、スマホの中の暗い写真も。使わないから捨てるとは限らない。捨てないから使うとも限らない。
ハルエは最後のカップを箱に入れた。
新聞紙が箱の中で少し鳴る。隙間に、丸めた紙を詰める。箱のふたはまだ閉めない。
「全部持っていくと、店が終わらないから。箱にも入らないし」
ハルエはそれだけ言った。
佐知は欠けたカップを見た。
終わらない。
言葉だけなら、ずるい。置いていったものは、たぶん工事のときに捨てられる。誰かが大事に残してくれるわけではない。箱に入れなかったものは、なくなる側へ行く。
それでも、ハルエは終わらないと言った。
「店って、まだあるんですか」
佐知が聞くと、ハルエは少し笑った。
「ないよ」
「ないんですか」
「喫茶ポニーはもうない。これは跡」
「じゃあ終わるも何も」
「跡だって片付くでしょ」
ハルエは箱のふたを軽く押さえた。テープは貼らない。ただ、閉じただけにする。
佐知は鞄の中のスマホを思い出した。
欠けたカップの写真は、もう撮ってある。暗い写真だ。今日の光で撮れば、もっと見えるかもしれない。欠けたところも、底の染みも、置いていくと決まった顔も。
でも、佐知は出さなかった。
「外、看板出てました」
「見た」
ハルエはあっさり言った。
「早くないですか」
「向こうは仕事だからね」
「こっちも、仕事じゃないんですか」
「私のは片付け」
「違います?」
「給料が出ない」
佐知は返す言葉を少し探して、「なるほど」と言った。
ハルエは笑わず、カウンターの下から古い布を出した。埃を払って、また別の箱へ入れる。いるものなのか、いらないものなのか、佐知には分からない。
外で、金属の音がした。
佐知は入口へ顔を向けた。通りのほうで、作業服の男が白い板を動かしている。まだビルの入口をふさぐほどではない。板を持ち上げ、位置を変え、また壁に立てかける。コーンが直され、傾きがなくなった。
佐知は少しだけ惜しいと思った。
傾いたまま撮っておけばよかった。
そう思ってから、すぐに嫌になった。
撮れなかったものは、すぐにそういう顔をする。もう戻らない形をして、頭の中に残る。
「阿久津さん」
やえの声がした。
振り向くと、奥の戸からやえが出てきた。手には雑巾を持っている。髪が少し乱れていて、額に薄く汗がついていた。
「外の看板、見ました?」
「見た」
「安全第一って書いてありました」
「うん」
「今さらですよね」
佐知は少しだけ笑った。
「同じこと思った」
「阿久津さんも性格悪いですね」
「今のはビルのほうが悪い」
「ビルに性格を押しつける」
やえは雑巾をバケツに投げた。水が跳ね、床に小さな点が飛ぶ。
「撮りました?」
やえが聞いた。
佐知は首を横に振った。
「まだ」
「まだ」
やえはその言葉を繰り返した。
まだ、という言い方をしたことに、佐知は少し遅れて気づいた。
撮らない、ではない。
撮れない、でもない。
まだ。
ハルエが箱のふたをもう一度開け、新聞紙の隙間を確かめた。
「明日は板、もう少し出ると思うよ」
「外の板ですか」
「板も、人も」
ハルエの声は平たい。言うだけ言うと、箱の中の新聞紙を指で押し込んだ。
佐知は欠けたカップを見た。
箱に入らなかったカップは、カウンターに残っている。外では、白い板がまた少し動いた。
今日か明日。
今日なら、まだ入口は見える。
明日なら、もっと白い板が増えるかもしれない。
その二つのうち、今日を選ぶ気にはならなかった。
佐知はスマホを出さないまま、看板の文字だけをもう一度思い出した。
明日なら、撮るかもしれない。




