第088話 ミセナイノミ・四
休憩のあと、片付けは少し雑になった。
誰かが急いだわけではない。ただ、朝から分けて、包んで、運んで、拭いているうちに、全員の判断が少し軽くなっていた。ハルエは迷う時間を短くし、やえはメモの字を小さくし、弓削は一度置いたものを別の箱へ移して、また戻した。
「それ、さっきこっちじゃなかったですか」
やえが言うと、弓削は箱の前で止まった。
「旅をさせようかと」
「戻してください」
「はい」
佐知はそのやり取りを聞きながら、棚の下の細い隙間を拭いていた。雑巾には、埃と、昔こぼれたらしい砂糖がつく。乾いて固まった砂糖は、指で押すとざらっと崩れた。
写真を撮るには、あまりきれいではない。
そう思ってから、きれいかどうかは関係ないかもしれないと思った。
佐知はスマホを出し、棚の下を撮った。
暗い。奥までは写らない。雑巾の端が入って、画面の半分をふさいでいる。撮り直せばもう少し見えるだろうが、佐知は撮り直さなかった。
「阿久津さん、俺の写ってるやつあったらくださいよ」
弓削が急に言った。
佐知はスマホを下ろした。
「写ってるやつ、ですか」
「昨日でも今日でも。俺、働いてた証拠ほしいんで」
やえが箱にメモを貼りながら言った。
「働いてた証拠、自己申告じゃ足りないんですか」
「俺の自己申告、信用が薄いので」
「自覚はあるんですね」
「あります。だから写真で補強を」
ハルエが「補強するほど働いた?」と言った。
弓削は少し考えた。
「補修くらいは」
「壁みたいに言うな」
佐知は写真の一覧を開いた。
昨日の弓削は、足元だけ写っている。ケーブルをまたいだ変な角度の靴。今日の弓削は、棚の下に手を突っ込んでいるところ、軍手の指先、箱の横に立つ膝だけが写っている。
顔はない。
それでも、たしかに弓削だとわかる。
「足ならあります」
「足かあ」
「昨日の」
「昨日の俺、足から始まって足で終わってるな」
やえが「だいたい合ってます」と言った。
弓削はスマホを取り出し、自分の連絡先を開こうとして、別のアプリを開いた。
「あれ」
「何してるんですか」
「働いてた証拠をもらう前に、働けない証拠を出してしまった」
ハルエが「もういいから箱持って」と言った。
佐知は一覧を閉じた。
送るなら、足の写真でいいのかもしれない。本人が欲しいと言っている。顔は写っていない。変な角度だが、弓削はたぶん気にしない。むしろ何か言う。
けれど、今は送らなかった。
弓削も、すぐには催促しなかった。箱を持って、隣の空き区画まで運ぶ。軍手の指先が箱の縁に食い込んでいる。歩くたびに、中の食器が小さく鳴った。
やえは何も言わない。
昨日の写真を見たいと言ったのは、朝のLINEだけだった。ここに来てからは、写真を見せろとは言わない。佐知が撮るたびに気づいているのに、画面をのぞき込まない。ハルエが見せてと言ったときも、横から割り込まなかった。
その沈黙が、逆に目立った。
佐知はカウンターの端に立ち、スマホを手にしたまま、やえの背中を見た。やえはガラスの紙ナプキンを外すかどうか、テープの端に指をかけて迷っている。
「剥がします?」
佐知が聞くと、やえは振り向いた。
「ハルエさんが夕方までって」
「もう、だいぶ夕方です」
「たしかに」
やえは紙ナプキンを見た。
外の光は、昨日より黄色い。ガラスの汚れが目立ち、紙の白は少し灰色になっている。端が丸まり、文字の一部が浮いている。
「剥がしたら、昨日っぽさ減りますね」
「もうだいぶ減ってます」
「ですよね」
やえはテープの端から指を離した。
「じゃあ、あと五分」
「五分で何が変わるんですか」
「剥がす側の気分」
佐知は頷いた。
気分。
それは、理由として弱いようで、強い。ハルエが面倒だから夕方までと言ったのも、やえがあと五分と言ったのも、たぶん似た場所にある。
佐知はスマホで紙ナプキンを撮った。
昨日より、白がくすんでいる。テープの浮きがはっきり写っている。外の道路はぼやけ、ガラスの内側に、やえの指先だけが薄く反射していた。
指先だけ。
佐知はその写真を開いたまま、共有の印を押した。
送信先に、やえの名前が出る。
朝のLINEが一番上にある。
昨日の写真、見せろとは言いません。でも見たいとは思ってます
その下に、佐知の返した「そのうち」がある。
佐知は新しい写真を添付した。紙ナプキンと、やえの指先の反射。昨日の写真ではない。今日の写真だ。しかも、やえの顔は写っていない。
これなら送れるかもしれない。
そう思った。
送信ボタンは青い。
押せば届く。
届けば、やえは見る。たぶんすぐ見る。隣にいるのに、スマホが震えて、やえが画面を見る。テープですね、と言うかもしれないし、何も言わずポケットにしまうかもしれない。
どちらでも困る気がした。
佐知は送信ボタンから指を離した。
画面はそのまま。写真も、宛先も、文字を入れられる空欄も残っている。まだ送っていないだけで、取り消したわけでもない。
「阿久津さん」
やえの声がした。
佐知は画面を消した。
「はい」
「今、すごく送るかどうかの顔してました」
「どんな顔ですか」
「眉間が、送信ボタン」
「意味がわからない」
「私も言ってから思いました」
やえは紙ナプキンの前から離れ、佐知の隣に来た。距離は近すぎない。画面を見ようとすれば見えるかもしれないが、やえは見ない。
「見たいとは言いました」
「はい」
「でも、見せろとは言ってません」
「朝もそうでした」
「大事なので」
佐知はスマホを握り直した。
ケースの角が、手のひらに当たる。少し熱い。ずっと使っていたからか、部屋が暑いからか、どちらもある。
「送ろうとはしました」
「はい」
「送りませんでした」
「はい」
「それだけです」
やえは少しだけ首を傾けた。
「それだけ、ですかね」
「何かありますか」
「ありますけど、言うとまた面倒になるので、半分にします」
「半分」
「見せないやつがあってもいいんじゃないですか」
佐知はすぐに返事をしなかった。
ガラスの紙ナプキンが、風で少し動いた。テープがぺら、と鳴る。昨日も聞いたような音だが、昨日とは違う。紙は乾き、端は丸まり、もうすぐ剥がされる。
見せないやつ。
言葉にされると、画面の中のものが一枚ずつ戻ってくる。
欠けたカップ。
水滴。
紙ナプキン。
弓削の足。
開いた戸。
今日の軍手。
コースター。
テープ。
やえの指先の反射。
誰かに見せるために撮ったわけではない。けれど、誰にも見せないと決めて撮ったわけでもない。撮ったあとで、見せるかどうかがついてくる。消すかどうかも、ついてくる。
全部を今すぐ、送る先まで決めなくてもいいのかもしれなかった。
「いいんですかね」
佐知が言うと、やえは肩をすくめた。
「私に許可を取る話ではないです」
「聞いたの、そっちです」
「確認です」
「ずるい」
「よく言われます」
言われているところは見たことがないが、たぶん言われているのだろうと思った。
弓削が隣の区画から戻ってきた。
「箱、置いてきました。俺の働いてる証拠、増えました?」
やえが「今、そういう話じゃないです」と言った。
「だいたい俺が入るとそう言われる」
「タイミングがそうだからです」
弓削は納得したように頷き、また別の箱を持った。
佐知はスマホの画面をつけ直した。
送信直前の画面は消えて、写真の一覧に戻っていた。さっき選んだ紙ナプキンの写真が、最新の小さな四角として並んでいる。
送らなかった。
でも、消えていない。
やえはそれ以上、写真の話をしなかった。
五分後、紙ナプキンは剥がされた。テープの跡がガラスに残り、やえがそれを雑巾でこすった。完全には取れず、白い曇りが少し残った。
佐知はその跡を撮らなかった。
撮らなかったことも、残った。




