第087話 ミセナイノミ・三
弓削の買ってきた軍手は、思ったより役に立った。
箱の底を持つとき、カウンターの下から古い金具を出すとき、棚の奥にたまった埃を払うとき、素手で触りたくないものはいくらでもあった。弓削は自分の買い物に少し満足した顔をしていたが、ハルエに「二組じゃ足りない」と言われて、すぐに顔を戻した。
「そこまで考えてなかったです」
「知ってる」
ハルエは短く言った。
佐知は軍手を片方だけ借りた。右手にはめると、指先が少し余る。左手は素手のまま、紙ものを分けた。
古い領収書。
メニューの試し刷り。
砂糖の袋。
使わなかったマッチ箱。
ポニー、と印刷された小さな紙は、端が黄ばんでいた。馬の絵はない。ただ、片仮名の文字だけが、茶色くかすれて残っている。
「それ、捨てないで」
ハルエが言った。
佐知は手を止めた。
「これですか」
「うん。使わないけど、捨てない」
「はい」
使わないけど捨てないものが、この場所には多い。
欠けたカップ。
片方だけ残った砂糖入れ。
古い紙ナプキン。
いつからあるかわからないマッチ箱。
佐知はそれらを、捨てるものとは別の箱に入れた。箱にはまだ名前がない。ハルエも、名前をつけるつもりはなさそうだった。
作業が少し落ち着いたところで、佐知はスマホを出した。
昨日より、出すまでに時間がかからなかった。
撮ろう、と強く思ったわけではない。ポケットの中にあるものを出し、画面をつけ、カメラを開く。その動きが、昨日より少しだけ引っかからなかった。
最初に撮ったのは、軍手だった。
白いはずの軍手は、棚の埃で灰色になっている。片方は弓削の手にはまり、片方はカウンターに置かれていた。指の先が少し丸くへこんでいる。
シャッター音が鳴った。
弓削が顔を上げた。
「手ですか」
「軍手です」
「俺の手、出演してます?」
「指先だけ」
「指先は過去を語りますかね」
「語るんじゃないですか」
「困るな」
弓削は困っていない顔で、棚の下へ手を入れた。
やえは奥で笑いを噛んでいた。笑うと皿を落としそうだからか、唇を結んでいる。そういう顔も撮れば写る。けれど、佐知は撮らなかった。
次に撮ったのは、ガラスに残ったテープの跡だった。
紙ナプキンを夕方まで残すと言ったあと、やえが端だけ貼り直した。そこだけテープが二重になっている。光が当たると、透明なはずのテープが白く浮く。ガラスの向こうに、外の道路がぼんやり見えた。
佐知は一歩近づいた。
画面の中で、テープの端と、道路の白線が重なった。
撮る。
音が鳴る。
やえが振り向いた。
「撮りましたね」
「はい」
「テープ?」
「テープ」
「いいですね、テープ」
「褒めてます?」
「いえ、テープだなと思って」
佐知は少しだけ息を吐いた。笑ったというほどではない。息の出口が、いつもより少しゆるんだだけだった。
昨日は、撮るたびに誰かの目を気にしていた。
今日も、気にしていないわけではない。弓削が見るか、やえが見るか、ハルエが何か言うか、そういうことは当然気になる。けれど、気になったあとで、手を止めるまでの距離が少し長くなっていた。
佐知はカウンターの上のコースターも撮った。
捨てるほうのコースターと、残すほうのコースター。どちらも紙で、どちらも古く、どちらも特別なものには見えない。ハルエが分けたから、行き先が違うだけだ。
写真にすると、その違いはほとんどわからない。
わからないまま、佐知は撮った。
「阿久津さん」
ハルエの声がした。
佐知はスマホを下ろした。
「はい」
「見せて」
言われた瞬間、右手の軍手の中で指が固まった。
ハルエはカウンターの向こうにいる。新聞紙を丸める手を止め、こちらを見ていた。顔はいつもと同じで、急かすようなものはない。
「今の?」
「うん」
佐知は画面を見た。
コースターが二枚、斜めに写っている。明るさは悪くない。けれど、何を見せられているのかわからない写真でもある。捨てるほうと残すほうの違いは、画面だけでは伝わらない。
伝わらない、と思った時点で、また頭の中に古い癖が戻ってきた。
説明できるか。
見せても変ではないか。
相手に何かを期待させないか。
佐知は親指を画面の端に置いた。
「嫌ならいい」
ハルエが先に言った。
佐知は顔を上げた。
ハルエは、新聞紙をもう一枚取っている。さっきと同じ手つきに戻っていた。
「見たいだけ。見せろってことじゃない」
「やえが言いそうなこと言いますね」
「あの子が私みたいなんじゃないの」
「どっちでも怒られそうです」
「じゃあ言わない」
ハルエは新聞紙でカップを包んだ。紙がこすれる音が、店の中で乾いて響く。
佐知はまだ、画面を見ていた。
見せることはできる。スマホを差し出せばいい。ハルエはたぶん、それを手に取らずに見る。少し目を細めて、何か一言言うかもしれない。何も言わないかもしれない。
それでも、佐知の手はすぐに動かなかった。
昨日の写真を誰にも見せていないことが、急に重くなる。今日の写真も見せなければ、また重なる。では、一枚見せれば軽くなるのか。たぶん、そう単純でもない。
「あの」
佐知が言うと、ハルエは「うん」とだけ返した。
「これ、何撮ったかわかりにくいです」
「そう」
「コースターです」
「うん」
「捨てるのと、残すの」
「私が分けたやつね」
「はい」
佐知はスマホを少しだけ向けた。手渡すのではなく、カウンター越しに角度を変える。ハルエが見えるぎりぎりのところで止めた。
ハルエは身を乗り出さなかった。
新聞紙の黒いインクが、ハルエの指先に少しついていた。ハルエはその手をエプロンで一度拭いたが、スマホには触らなかった。
遠いまま、画面を見た。
「ちっちゃいね」
「はい」
「老眼には厳しい」
「すみません」
「謝ることじゃないよ」
ハルエはそれだけ言って、また新聞紙を丸めた。
佐知はスマホを戻した。
見せたと言えるのか、言えないのか、わからないくらいの短い時間だった。ハルエの目には、コースターの形くらいしか届かなかったかもしれない。
それでも、画面を完全には隠さなかった。
そのことに、佐知自身が少し驚いていた。
やえは棚の前から何も言わない。見ていたのか、見ていなかったのかもわからない。弓削は棚の下から、何か金属の棒を引っ張り出している。
「これ、何ですかね」
「知らない」
ハルエが即答した。
「店のものじゃないんですか」
「店のものでも知らないものはある」
「深い」
「深くない」
弓削は金属の棒を持ったまま、置き場所に困っていた。
佐知はカメラを向けかけて、やめた。
床に落ちた細い影が、少し曲がっている。撮らなくても、しばらくそこにあった。
作業はまた続いた。
箱に入れるもの。
捨てるもの。
今は決めないもの。
三つに分けているはずなのに、すぐ混ざる。ハルエが分け直し、やえがラベルのない箱に仮のメモを貼り、弓削がそのメモを斜めに貼って怒られる。
佐知は、その斜めのメモも撮った。
昨日より自然に撮っている。
そう思いかけて、佐知はその言い方を止めた。
自然かどうかを考え出すと、また写真から離れてしまう。
ただ、撮った。
それでよかった。
昼過ぎ、ハルエが休憩にしようと言った。
全員がそれぞれの場所で手を止める。カウンターの上には、ペットボトルのお茶と、コンビニで買った薄い煎餅が置かれた。弓削が袋を開けると、煎餅が一枚割れていた。
「すみません、道中で何かが」
「何かはあんただよ」
ハルエが言った。
佐知は割れた煎餅を撮りそうになって、やめた。
やめたことも、少しだけ覚えておこうと思った。
ハルエはペットボトルの蓋を開けながら、佐知のスマホを見た。
「さっきの、見せてくれてありがと」
「ほとんど見えてなかったと思います」
「見えたよ。紙の丸いやつ」
「それだけです」
「それだけでいいの」
ハルエはお茶を一口飲んだ。
それから、紙ナプキンの貼られたガラスを見た。
「私の目で見たしね」
佐知は、何を、と聞かなかった。
ハルエが見たものは、写真の中だけではない。昨日の開いた戸も、カップも、来た人も、来なかった人も、今日半分片付いた店も、たぶん全部同じ場所にある。
佐知はスマホを伏せた。
ハルエはもう写真の話をしなかった。
その沈黙が、思ったよりうるさくなかった。




