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第086話 ミセナイノミ・二

朝食と呼ぶには遅く、昼食と呼ぶには少ないものを食べている途中で、スマホが震えた。


佐知は箸を置いた。


画面には、やえの名前が出ていた。


昨日の写真、見せろとは言いません。でも見たいとは思ってます


句読点まで、やえらしく少し固い。命令ではない。けれど、言っていないだけで、見たいという場所にはまっすぐ線が引かれている。


佐知はしばらく画面を見た。


味噌汁の表面に、油の小さな輪が浮いている。豆腐は沈みかけていて、わかめが器の端に張りついていた。朝から何度も開いた写真の一覧が、頭の中にまだ残っている。


見せろとは言わない。


でも見たい。


佐知は箸を持ち直し、豆腐を崩した。返事を後回しにすれば、たぶん一時間でも二時間でも後回しにできる。昨日撮った写真は消していない。送ろうと思えば送れる。ガラス戸でも、紙ナプキンでも、弓削の足でも。


送れるものと、送りたいものは同じではなかった。


佐知はスマホを手に取り、文字を打った。


そのうち


短い。冷たいようにも見える。けれど、ほかの言い方を探すと、もっと嘘になりそうだった。


送信する。


既読はすぐについた。


返事は来なかった。


やえが返事を考えているのか、考えるのをやめたのか、佐知にはわからない。既読の文字だけが、画面の下に小さく残っている。


佐知は残りの味噌汁を飲み、器を流しへ置いた。


外へ出ると、空気は昨日より少し乾いていた。道路の端に、朝のうちにまかれた水がまだ細く残っている。電柱の影が、昨日より短い気がした。


丸藤第六ビルへ向かう途中、佐知は一度だけスマホを出した。


やえからの追加のメッセージはない。


代わりに、写真のアイコンが見えた。触れば、一覧が開く。佐知は触らずに、スマホを鞄へ戻した。


ビルの入口には、昨日貼った紙ナプキンがまだあった。


外側から見える文字は、少し乾いて波打っている。端のテープが一本浮いていて、風が吹くたびに、ぺら、と弱く鳴った。昨日はあれだけ目立っていた白が、今日はガラスの汚れと一緒になっている。


丸藤第六ビルの中は、昨日の残りのにおいがした。


喫茶ポニー跡の戸は開いていた。


ただし、昨日の開き方とは違う。人を入れるためではなく、空気を入れ替えるための開き方だった。入口の横に、雑巾の入ったバケツが置かれている。椅子は半分、壁際に寄せられていた。カウンターの上には、段ボール箱が二つ並んでいる。


「おはようございます」


佐知が言うと、奥からハルエが顔を出した。


「もう昼だよ」


「すみません」


「謝るほどじゃないけどね」


ハルエは昨日のカップを新聞紙に包んでいた。手つきはゆっくりだが、迷いはない。包んだものを箱に入れ、隙間に丸めた新聞を詰める。


「手伝います」


「じゃあ、そのテーブルの上のもの、こっちに分けて」


佐知は鞄を椅子に置き、袖を少し上げた。


昨日、誰かが座っていた席には、紙コースターが二枚残っていた。ひとつは濡れたあとが丸く残り、もうひとつは端が折れている。メニューは閉じられ、古いクリップで留められていた。グラスは洗われて、伏せられている。


昨日の名残は、半分消えていた。


残っているものも、片付けの途中という顔をしている。紙ナプキンはまだガラスに貼ってあるが、テープの端は浮いている。スピーカーは床に置かれ、コードはきれいに巻かれていない。弓削がやったのだろうとすぐにわかる巻き方だった。


「弓削さんは」


「下でなんか買ってる」


ハルエが答えた。


「なんか、ですか」


「本人もわかってないんじゃない」


やえは奥の棚の前にいた。昨日見た服とは違う、灰色のシャツを着ている。棚から古い小皿を出して、一枚ずつ布で拭いていた。


佐知に気づくと、片手を上げた。


「来た」


「来ました」


「そのうち、早かったですね」


佐知は返事に詰まった。


やえは笑わなかった。小皿を光にかざし、縁の欠けを確認している。


「写真のことじゃなくて、こっちに来るのが」


「ああ」


「写真のことは、まだそのうちでいいです」


佐知はテーブルの紙コースターを重ねた。


「催促ですか」


「催促なら、もっと嫌な言い方します」


「しそう」


「しますね」


やえは小皿を箱に入れた。箱の底には、タオルが敷かれている。昨日の店のものが、今日の荷物になっていく。


佐知はカウンターへ紙コースターを持っていった。


ハルエがそれを見て、片方をつまんだ。


「これは捨てていい」


「はい」


「こっちは、まだ使える」


「折れてますけど」


「折れてても、水は受ける」


佐知は「そうですね」と言った。


昨日なら、同じコースターを写真に撮っていたかもしれない。今日も撮れる。濡れた丸、折れた端、捨てるほうと残すほう。それはそれで、目に残る。


けれど、佐知はスマホを出さなかった。


撮らないと決めたわけではない。ただ、手が紙で少し湿っていて、カウンターには箱があり、ハルエが次の指示を出そうとしていた。


「そのナプキン、外す?」


やえがガラスの前で聞いた。


紙ナプキンは、昨日「開けとく日」と書いたものだ。内側から見ると、文字は反転して読みにくい。テープが白く曇り、貼ったところだけガラスの汚れが目立つ。


ハルエは少し考えた。


「夕方まで置いといて」


「また誰か見るかもしれないから?」


「外すの面倒だから」


「理由が軽い」


「軽くていいの」


やえは「はい」と言い、テープの浮いた端を指で押さえた。


その仕草を、佐知は見ていた。


昨日の白い紙は、まだそこにある。


でも、昨日のままではない。乾いて、少し丸まり、ガラスから浮いている。昨日の人の声も、カップの音も、スピーカーから流れた音もない。残っているのは、片付けの手間と、剥がし忘れのような紙だけだ。


佐知は鞄の中のスマホを思い出した。


画面の中には、昨日の紙ナプキンがある。今日の紙ナプキンとは、少し違う。昨日撮ったものは、昨日のまま暗く残っている。


誰かに見せるためではなくても、残っている。


「阿久津さん」


やえが呼んだ。


「はい」


「そのうち、って便利ですね」


「便利ですか」


「閉じてるようで、閉じてない」


佐知は箱に新聞紙を詰めた。


「開けてるようで、開けてない、とも言えます」


「それもそうです」


やえは納得したような顔をしたが、たぶん本当に納得したわけではない。


外で、階段を上がってくる音がした。


弓削がコンビニの袋を下げて入ってくる。袋の中には、ペットボトルのお茶と、なぜか小さな軍手が二組入っていた。


「軍手、必要かなと思って」


ハルエが箱を閉じながら言った。


「昨日思いな」


「昨日は昨日で手が足りてました」


「今日は頭が足りないね」


弓削は「それは常時です」と言い、袋から軍手を出した。


佐知は少し笑った。


昨日の店は、もう昨日ほど店ではない。


ただ、完全にただの空き区画に戻ったわけでもない。


半分だけ消えて、半分だけ残っている。


その半分が、佐知のスマホの中にある半分と、少しずれている。


佐知は鞄の口を閉じ直した。


まだ、見せなかった。

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