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第085話 ミセナイノミ・一

翌朝、佐知は目覚ましより先に目を開けた。


部屋の中は、まだ朝というより、夜が薄くなっただけの色をしていた。カーテンの隙間から入る光が、畳の上で細く伸びている。エアコンは切っていた。布団の端が少し湿っていて、昨日の汗と、店の古いにおいがまだ残っている気がした。


枕元のスマホは、充電コードに引かれて少し斜めになっていた。


佐知は手を伸ばし、画面をつけた。


通知は少なかった。天気、安売りの知らせ、昨日の夜に来ていたアプリの宣伝。それらを指で上へ払って、写真の一覧を開く。


最新のところに、昨日が並んでいた。


開いたガラス戸。


弓削の足元。


紙ナプキン。


水滴のついたグラス。


欠けたカップ。


何を撮ったのか一瞬わからない黒っぽい四角もあった。開くと、床に落ちたコードだった。暗い。明るくする気にはならなかった。


佐知は一枚ずつ開いた。


欠けたカップは、やっぱり暗かった。カウンターの奥に置いたせいで、白いはずのカップが灰色に沈んでいる。欠けたところだけが少し白く出ていた。撮ったときには、そこが目に残ったのだと思う。


画面を少し傾けると、カップの縁に部屋の朝の光が映った。昨日の店の光ではないのに、欠けた白だけは同じところに残っている。


暗すぎないか。


先にそれを考えていた。


考えた瞬間、佐知は画面から目をそらした。


良いか悪いかをつけようとすると、写真はすぐに違うものになる。撮ったときのカウンターの湿った木のにおいも、ハルエの手の皺も、やえが横で妙な顔をしていたことも、そこから離れてしまう。画面の中の明るさ、傾き、余白、そういうものだけが急に大きくなる。


佐知はもう一度カップを見た。


暗い。


ピントも少し甘い。


欠けたところは写っている。


それだけだった。


指が画面の下へ行く。削除の印がある。ごみ箱の形は、ずっと同じような顔をしている。押せば、確認が出る。もう一度押せば、写真は一覧から消える。


佐知は押さなかった。


次に、グラスの水滴を開いた。


テーブルが濡れている。水滴の粒は思ったより大きく、いくつかは下へ流れたあとがある。奥に、やえの服の端が入っていた。顔は入っていない。腕も、手も、入っていない。緑がかった布の端だけだ。


次に、昔の声も来た。


阿久津さんらしいか。


佐知はグラスの縁を拡大しかけて、やめた。


その言葉まで相手にすると、また長くなる。


カップを暗く撮る人。


水滴を撮る人。


人の顔を入れない人。


開いた戸を撮って、音を撮れないと思う人。


どれも当てはまりそうで、どれも違う気がした。


佐知はグラスの写真を閉じ、一覧に戻った。


小さな四角が並ぶと、昨日の店はずいぶん狭く見えた。カウンター、床、ガラス、足、紙。人はいたはずなのに、人があまり写っていない。ハルエの声も、弓削の適当な返事も、やえの少し速い足音も、一覧には出てこない。


誰かに送ったら、どう見えるか。


三つ目の考えが出てきて、佐知は眉間を指で押さえた。


見せられる写真、というものがある。


誰に見せても説明できる写真。昨日何をしていたのか、一枚でわかる写真。そこにいた人が笑っていて、場所が明るくて、できれば余計なものが写っていない写真。


昨日の写真は、たぶんそうではない。


紙ナプキンは、ただガラスに貼られている。外から撮ったものは文字が少し曲がっている。中から撮ったものは、蛍光灯が反射して白く飛んでいる。


弓削の足元は、本人に見せたら文句を言うかもしれない。いや、昨日の調子なら、変なことを言って終わるかもしれない。足は過去を語らない、とか、また別のことを言うかもしれない。


開いた戸の写真は、少しだけ良かった。


そう思ってから、佐知はすぐにその言葉を引っ込めた。


良い。


またそれだった。


画面の中で、ガラス戸は少しだけ開いている。外の光が細く入り、床に線を作っている。紙ナプキンの白が端にあり、店の中は暗い。人は写っていない。


ただ、戸が開いている。


昨日、確かに開いていた。


それ以上の説明はなかった。


佐知は写真を拡大した。レールの汚れが見えた。端のゴムが少し裂けている。ガラスの下のほうに、たぶん誰かの靴がつけた小さな泥がある。撮ったときには気づかなかったものが、今は画面の中にある。


見せたら、どうなるだろう。


ハルエは笑うだろうか。


弓削はまた足の話にするだろうか。


やえは、黙って見るだろうか。


そこまで考えて、佐知はスマホを布団の上に伏せた。


画面が消える前の光が、畳に少しだけ落ちた。


伏せても、写真は消えない。見なかったことにもならない。充電コードが引っかかって、スマホの角が布団に沈んでいる。


佐知は仰向けになった。


天井の木目に、昨日のガラス戸の線が重なった。似ているわけではないのに、細い直線を見ると、開いた戸を思い出す。


もう一度スマホを取る。


一覧を開く。


削除の印は、どの写真にも同じ場所にある。暗い写真にも、ぼけた写真にも、何を撮ったのかわかりにくい写真にも、同じ顔でついている。


佐知は一枚も選ばなかった。


アルバムを作ることも、名前をつけることも、誰かに送ることもしない。


ただ一覧に戻って、昨日の写真がそこにあるのを見た。


ちゃんと写っているか。


誰かに送ったら、どう見えるか。


そんな確認の途中に、昔の言葉も混ざる。止めようとしても、すぐには止まらない。昔から使っていた道具みたいに、手に馴染みすぎている。


でも、出てきたからといって、従わなくてもいいのかもしれなかった。


佐知は欠けたカップをもう一度開いた。


暗い。


やっぱり暗い。


でも、そこにカップはある。


欠けたところもある。


昨日、そのカップをハルエが指で撫でたことも、佐知は覚えている。画面には写っていない。写っていないが、写真を見ると、思い出す。


今は、そのまま置いておく。


佐知はごみ箱の印から指を離した。


スマホを起こしたまま、布団の上に置く。


画面はしばらく明るく、暗いカップを映していた。


充電コードが少し張って、スマホの向きが斜めになる。暗いカップも斜めになった。佐知は直さなかった。


消す理由は、いくつも思いついた。


消さない理由は、まだうまく言えなかった。


それでも、佐知は消さなかった。

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