第084話 アケッパナシ・四
欠けたカップの写真は、思ったより暗かった。
画面の中で、カップの白は灰色に近い。縁の欠けは写っているけれど、最初に見た時ほどはっきりしない。スピーカーは端だけ入っていて、何なのか分かりにくい。メニュー表の文字は読めない。
消すなら、理由には困らない。
佐知は写真を開いたまま、親指を動かさなかった。
削除のアイコンは下にある。押せば消える。最近削除した項目に移る。完全に消すにはもう一回触らなければいけない。今の佐知は、その手順をよく知っている。
知っているのに、押さなかった。
「消さないんですか」
やえが横から言った。
佐知はスマホを少し自分のほうへ寄せた。隠すほどではない。でも見せるほどでもない。
「見たの」
「顔に出てました」
「どんな顔」
「削除ボタンと殴り合ってる顔」
「殴ってない」
「殴られてる側ですか」
「違う」
やえは、それ以上のぞき込まなかった。
「へえ」
それだけ言って、ガラス戸のほうへ戻る。
「それだけ?」
佐知が聞くと、やえは振り返った。
「旗とか振ったほうがいいですか」
「いらない」
「ですよね」
やえは紙ナプキンの端が少し浮いているのを見つけ、テープで押さえ直した。大げさに喜ばない。その雑さに、佐知は少し助かった。
ハルエは、昔の常連の女の人に麦茶を出していた。コーヒーではなかった。カップは並べたけれど、使うのは結局グラスだった。
「カップ使わないんですか」
佐知が聞くと、ハルエは当然の顔で答えた。
「洗ったばっかりだから」
「使うために洗ったんじゃ」
「見せるために洗ったの」
「喫茶店としてどうなんですか」
「閉まってる店としては上出来」
女の人が笑った。弓削もスピーカーの横で笑い、音が少し揺れた。片方だけのスピーカーは、相変わらず片方だけで、たまに音がざらつく。
佐知はカメラを閉じなかった。
欠けたカップの写真を一覧へ戻す。写真は一番新しいところに残っていた。その隣には、折れた休学延長の書類がある。違う場所で撮った、違う種類の情けなさ。どちらも誰にも見せていない。
佐知はカメラに戻った。
今度は、カウンターの端を撮った。グラスの水滴。ハルエの手が置いたふきんのしわ。女の人のスーパーの袋から出たねぎの青いところ。顔は入れない。
シャッターを押す。
消さない。
次に、ガラス戸の紙ナプキンを撮った。外からの光で文字は少し透けている。やえの指がテープを押さえ直したあと、端に小さな折れが残っていた。
シャッターを押す。
消さない。
メニュー表にも一度カメラを向けた。
ナポリタンの文字は見つからなかった。値段の数字と、端の浮いたラミネートだけが画面の中で窮屈に並んだ。佐知は撮らずに、スマホを少し下げた。
撮らないものが残っても、店の中は減らなかった。
カウンターの上では、ラミネートの角だけが少し反っていた。画面に入れないままでも、目の端には残っている。
半分下ろしたシャッターの影にもカメラを向けた。床に細い縞が落ちていて、椅子の脚で途中だけ切れている。光はすぐ動く。次に見た時には、影の位置が少し変わっていた。
佐知は撮らずに、画面を下げた。
影は少しずれても、店の中から消えたわけではなかった。
弓削がスピーカーの前で、ケーブルを踏まないように妙な姿勢で移動している。佐知は弓削の顔を外して、足元とケーブルだけを撮った。
「今、俺の情けない足さばき撮りました?」
「顔は入れてないです」
「そこじゃないっすね」
「じゃあ消します?」
佐知が聞くと、弓削は少し考えた。
「いや、足だけならまあ」
「いいんだ」
「足は過去を語らないんで」
やえが「語ってますよ、だいぶ」と言った。
佐知は写真を見た。たしかに、弓削の足はかなり無理な角度だった。ケーブルをよけるためだけに、変な踊りの途中みたいになっている。
佐知は消さなかった。
開けとく日は、忙しくはならなかった。
通りかかった人が二人、ガラスの紙ナプキンを見て中をのぞいた。一人はそのまま通り過ぎ、一人はハルエと少し話して帰った。昔の常連の女の人は、麦茶を半分飲んで、スーパーの袋を持ってまた買い物の続きへ戻っていった。
「また開けるの?」
帰り際に、女の人が聞いた。
ハルエはカウンターのカップを見た。
「さあね」
「さあねって」
「今日、開いてたでしょ。それでいい」
女の人は「相変わらずだねえ」と言って、ガラス戸を開けた。戸のレールがまた、ギ、と鳴った。
佐知はその音を撮れない。
だから、戸が少し開いたところを撮った。女の人の顔は入れない。ガラスの端、紙ナプキンの白、外の光、床に落ちた細い影だけ。
シャッター音が、小さく鳴った。
やえは気づいていたが、何も言わなかった。代わりに、自分のスマホでガラス戸のレールを撮っている。たぶん、佐知よりずっと雑に。
夕方になる前に、ハルエはカップを片付け始めた。
「もう閉めるんですか」
やえが言うと、ハルエは「開けっぱなしにしたら虫が入る」と答えた。
「アケッパナシの日なのに」
「虫には関係ないからね」
「夢がない」
「虫の夢は知らない」
佐知は笑いそうになって、少しだけ息が漏れた。
カップは箱に戻され、紙ナプキンはガラスに貼られたまま残った。スピーカーの音は止まり、弓削がケーブルを丸める。店内には、さっきまで誰かが座っていた跡だけが残った。
大成功ではなかった。
誰かが行列を作ったわけでもない。昔の店が戻ったわけでもない。カップのほとんどは使われず、コーヒーも出なかった。
それでも、戸は開いていた。
佐知のスマホには、暗い欠けたカップと、グラスの水滴と、紙ナプキンと、弓削の足元と、開いた戸の写真が残っている。
誰にも見せていない。
一日だけ、開いていた。
その一日が、画面の中で少し暗く残っていた。
暗いままでも、佐知は今のところ、それを消したくなかった。
佐知は画面を閉じなかった。
消す予定もなかった。




