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第083話 アケッパナシ・三

「残ってたんじゃなくて、片付けそびれたの」


ハルエは、白い髪の女の人にそう言った。


言い方は軽かった。言い訳でも、説明でもない。台所の引き出しから古い輪ゴムが出てきた時みたいな声だった。


女の人はスーパーの袋を持ったまま、店の中へ半歩入った。


「片付けそびれて、こんなに残る?」


「残るのよ。片付けるの面倒だったから」


「牛尾さん、昔からそういうとこある」


「昔から知ってるみたいに言わないで」


「知ってるもの」


女の人は笑った。大きく笑うわけではなく、口の端だけが少し上がる。ハルエはカウンターの内側でカップを一つ動かした。


「座る?」


「買い物の途中だから、少しだけ」


「少しだけ開けてる店だから、ちょうどいいね」


「店って言っていいの」


「今日は言っていい」


ハルエは、カウンターの一番端の椅子を指で叩いた。女の人はスーパーの袋を足元に置き、椅子に腰を下ろす。椅子の脚が、床の古い傷をなぞってギ、と鳴った。


佐知は、その音を聞いていた。


「昔、ここ、ナポリタンあったわよね」


女の人が言った。


ハルエはカップを動かす手を止めた。


「あったかな」


「あったわよ。粉チーズが固まって出てこないやつ」


「それ、いい思い出?」


「いい思い出じゃないけど、覚えてる」


ハルエは少し笑って、「そういうのばっかり残るね」と言った。


佐知は、メニュー表を見た。ラミネートの端が浮いているそこに、ナポリタンの文字は見えなかった。消えたのか、最初から別の紙にあったのか、佐知には分からない。


それでも、女の人の声で、メニュー表の向こうに赤い皿のようなものが一瞬だけ浮いた。


写真には写らないものだった。


写らないもののほうが多い。


そう思うと、少しだけ気が楽になった。全部を撮ろうとしていたから、いつも撮れなくなる。撮れないものがあると決まっているなら、撮れるものだけでいいはずだった。


写真係をやるとも、やらないとも言っていない。スマホは手にある。カメラはまだ開いていない。やえはガラス戸のそばで、入口の女の人を撮るのではなく、レールのさびを撮っていた。


やえらしい、と思った。


女の人の顔ではなく、戸が開いた跡を撮る。


佐知は店内を見た。


カウンターに並んだカップ。


片方だけ鳴るスピーカー。


壁際に立てかけられたメニュー表。


半分下ろしたシャッターの影が、床にしま模様を作っている。外の光はガラス戸を通って薄くなり、紙ナプキンの文字を背中から透かしていた。


見るものが多すぎる。


前なら、そう思った瞬間に、何を撮ればいいか分からなくなっていた。全部を入れようとして、全部がだめになる。切る場所を決めるのが怖くなる。誰かに見せる前提で、使えそうな一枚を探してしまう。


今も、その癖はあった。


けれど、昨日撮った折れた書類の写真が、スマホの中に残っている。


あれは、使えそうな一枚ではなかった。


それでも残っている。


「阿久津さん、顔が作戦会議です」


弓削が言った。


佐知は顔を上げた。弓削はスピーカーの横に座り込み、ケーブルを結束バンドでゆるくまとめている。


「作戦なんかないです」


「ないならちょうどいいっすよ」


「何が」


「係って、たいてい適当でいいんすよ」


やえがレールの写真を確認しながら、「適当係」と言った。


弓削は「それだと俺まで怒られそう」と返した。


「適当でいいって、適当な人が言うと信頼できないですね」


佐知が言うと、弓削は結束バンドを持ったまま顔を上げた。


「ちゃんとしてる人が言う適当は、だいたいちゃんとしてますからね」


「それは困る」


「困るんすよ。だから俺くらいが言うのがちょうどいいんです」


やえが「逃げの技術」と言った。


弓削は否定しなかった。


佐知は、少しだけ肩の力を抜いた。


適当でいい、と言われても、すぐ適当にはなれない。けれど、きちんとしなければいけないと言われるよりは、息を吸う場所があった。


佐知はその場所に、片足だけ置いてみることにした。全部入るのはまだ怖い。片足なら、戻れる。


佐知は、スマホの画面を点けた。


ロックを外す。写真アプリのアイコンが目に入ったが、開かない。カメラを開く。画面に店内が映る。


最初に入ったのは、女の人の後ろ姿だった。


佐知は少し角度を変えた。顔は入れない。背中も、今日はまだ違う気がした。


カウンターの上へ向ける。


カップが並んでいる。どれも少しずつ違う。どれも主役みたいな顔はしていない。白いカップの一つに、欠けがあった。縁のところが小さく削れて、そこだけ釉薬が薄くなっている。


佐知はそこに画面を寄せた。


欠けたカップ。


その後ろに、紙ナプキン。


さらに奥に、片方だけ鳴るスピーカーの端。


メニュー表の文字はぼやけていて、読めない。光が少し反射している。きれいに撮るなら、角度を直したほうがいい。カップの欠けも、もう少し中央に置ける。


佐知は直さなかった。


「撮るんですか」


やえが聞いた。


前にも聞かれた言葉だった。


佐知は画面を見たまま、「分からない」と言いそうになった。


でも、分からないままでも、指は動いた。


シャッターボタンを押す。


小さな音がした。


欠けたカップが、画面の端で写真になった。


佐知はすぐには確認しなかった。スマホを下ろして、カウンターの上の本物のカップを見る。欠けは、写真にしたあとも欠けたままだった。


「撮ったんですか」


やえがもう一度聞いた。


佐知はうなずいた。


「欠けてるやつ」


「いい趣味ですね」


「褒めてないでしょ」


「褒めてないです」


「正直」


佐知はそこで、初めてサムネイルを開いた。


写真の中のカップは、少し斜めだった。欠けは端に寄っている。スピーカーは中途半端に切れている。メニュー表は読めない。


でも、撮れていた。


消す理由なら、すぐに何個も見つけられた。


佐知は、まだ削除のアイコンに触れなかった。

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