第082話 アケッパナシ・二
紙ナプキンの「開けとく日」は、思ったより目立たなかった。
ガラス戸の内側に貼られた白い紙は、外の光に負けて少し透けている。黒い文字も、道を通る人の動きや車の反射にまぎれた。店の中から見ると、文字の向こうを自転車の前かごが横切ったり、知らない人の肩が通ったりする。
やえは腕を組んで、それを見ていた。
「地味ですね」
「貼った本人が言う?」
「もうちょっと事件性がほしい」
「喫茶店跡に事件性はいらない」
「跡って言うと急にしおれますね」
佐知はカウンターの端に立っていた。ハルエに言われて、紙ナプキンを追加で十枚出したところだった。全部に何かを書くわけではない。ただ、カップの下に敷くと古い染みが隠れるらしい。
「隠すために敷くんですか」
「見えるよりはましでしょ」
ハルエはそう言いながら、別の染みはそのままにしている。
佐知は何も言わなかった。隠す染みと、残す染みの基準はよく分からない。ハルエの基準なのか、カップの都合なのか、ただの気分なのか。
弓削はスピーカーの横でしゃがみ込み、スマホから音を飛ばしていた。片方だけのスピーカーは相変わらず片方だけで、音が出るたびに小さく震える。
「これ、音量上げたら割れます?」
やえが聞いた。
「割れるかどうかで言うと、俺の心が先に割れます」
「機械より弱い」
「機械も弱いっすよ。だいぶ」
弓削がつまみを回すと、古い歌謡曲みたいな音が流れた。ハルエが一瞬だけ顔を上げる。
「それ、違う」
「何がすか」
「ポニーっぽくない」
「ポニーっぽさ、分かんないんすよ」
「じゃあ小さくしときな」
「解決が雑」
音はまた小さくなった。
やえはそれを見てから、佐知のほうへ来た。手には、さっき余ったセロハンテープがくっついている。
「阿久津さん」
「何」
「写真係やります?」
佐知は、反射で「やらない」と言いそうになった。
口の中まで、その形が来ていた。
でも、声にはならなかった。
やえはその沈黙を見て、少しだけ眉を上げた。
「すごい。いつもの即答が来ない」
「うるさい」
「録音しとけばよかった」
「するな」
「撮っても撮らなくてもいいやつです」
やえは言った。
佐知は、カウンターに並んだカップを見た。白いカップの一つは、取っ手の付け根に細いひびが入っている。茶色い線のカップは、線が一周しきらずに途中で少し途切れていた。古いメニュー表の上には、誰かの指紋みたいな曇りがある。
撮りたい、と思った。
そう思ったあとで、撮ったらどうするのかが追いかけてくる。
誰かが見るかもしれない。
あとで自分が開くかもしれない。
変に整えてしまうかもしれない。
古い声は、全部の椅子に勝手に座ろうとする。
佐知はスマホを握り直した。
「係って言うと、しなきゃいけない感じがする」
「じゃあ、係じゃないです」
「何」
「気が向いたらカメラを向ける人」
「長い」
「略して、気カメラ」
「最悪」
「じゃあ考えてください」
やえはそう言って、セロハンテープを自分の指からはがし始めた。
佐知は、断らなかった。
そのことに、自分で少し遅れて気づいた。
断らないだけで、引き受けたわけではない。
佐知はすぐに、そう言い訳したくなった。言い訳の置き場所を探すみたいに、カウンターのカップを見た。紙ナプキンの上に置かれたカップは、さっきより少し店のものに見える。紙を一枚敷いただけで、古い染みは隠れ、カップの影が少しやわらかくなっていた。
「阿久津さん」
「何」
「今、やっぱりやめますって顔しました」
「してない」
「じゃあ、しそうな顔」
「細かい」
「写真係、顔が忙しいですね」
「まだ係じゃない」
「じゃあ、係未満」
「それならいい」
「いいんですか」
やえは少し笑った。佐知は笑わなかったが、否定もしなかった。
ハルエは聞いているのかいないのか、カウンターの内側でグラスを出している。グラスには小さな曇りが残っていて、ハルエはそれを親指でこすった。
「撮るなら、変にいい感じにしなくていいからね」
「まだ撮るって言ってません」
「言ってないね」
「じゃあ」
「でも、変にいい感じにしたら、たぶんこの店に負ける」
佐知は返事に困った。
喫茶ポニー跡は、いい感じにされることを嫌がりそうな店だった。欠けたもの、違う形のもの、片方だけ鳴るもの、途中でやめたもの。そういうものをきれいに並べすぎると、たしかに負ける気がした。
佐知はスマホをポケットに戻した。
今はまだ、手元に持っているだけでいい。
ポケットの中で、スマホの角が指に当たる。昨日までなら、その重さだけで逃げ道みたいだった。今日は、逃げ道というより、持っていても置いていてもいい道具に少し近かった。
道具に戻るなら、それは少しありがたい。写真を撮るための板で、誰かに見せるための証拠ではない。そう思えたのは、ほんの数秒だったけれど。
数秒あれば、前よりは長い。
そのくらいの前進なら、まだ誰にも気づかれずに済む。
店の戸口で、戸が小さく鳴った。
カラン、という音はしなかった。もう喫茶店ではないから、ドアベルは外されている。代わりに、古いガラス戸のレールが少しだけ引っかかって、ギ、と低く鳴った。
ハルエが顔を上げた。
入口に立っていたのは、小柄な女の人だった。白い髪を後ろで丸め、薄い紫色のカーディガンを羽織っている。片手には、近所のスーパーの袋を持っていた。袋の中で、ねぎの青い部分が少し出ている。
女の人は店の中を見回した。
カウンター。カップ。スピーカー。紙ナプキン。ガラスに貼られた「開けとく日」。
それから、ハルエを見た。
「まだ残ってたんだねえ」
ハルエは少しだけ目を細めた。
「残ってたんじゃなくてね」
そこで一度、言葉を切った。
佐知はスマホを持ったまま、入口の女の人と、カウンターのカップを見た。
店の中に、前からあった時間が一つ入ってきた。




