第081話 アケッパナシ・一
喫茶ポニー跡のカウンターに、古いカップが並んでいた。
白いもの。茶色い線の入ったもの。取っ手の形が少しだけ違うもの。底に水の跡が残っているもの。ハルエはふきんで一つずつ拭いて、向きをそろえたり、そろえなかったりした。
「これ、そろえるんですか」
佐知が聞くと、ハルエはカップの内側をのぞいたまま答えた。
「そろえたら喫茶店っぽいでしょ」
「はい」
「でも、うちは閉まってるからね」
ハルエはそう言って、わざと一つだけ斜めに置いた。
昨日の夕方に見た時より、店内は少しだけ店に近づいていた。窓際の椅子は脚のがたつきが少ないものに替えられ、壁際には古いメニュー表が立てかけられている。メニューの角は丸くなり、ラミネートの端が少し白く浮いていた。
開けとく日。
その言葉は、まだ店のどこにも貼られていなかった。
けれど、カップが並ぶだけで、言葉より先に何かが始まっている気がした。佐知は鞄のひもを肩にかけ直した。中には、大学でもらった案内の紙と、折れた休学延長の書類がある。スマホの中には、その写真もある。
誰にも見せていない。
見せていないまま、佐知は喫茶ポニー跡に立っていた。
「突っ立ってるなら、これ拭いて」
ハルエがふきんを一枚投げてきた。佐知は慌てて受け取る。湿ったふきんは、思ったより冷たかった。
「私が触っていいんですか」
「割らなきゃいいよ」
「割ったら」
「割れたってことになる」
「それはそうですけど」
佐知はカップを一つ持った。軽い。思っていたより軽くて、逆に怖い。白いカップの底には、ポニー、という文字が青で小さく入っていた。印刷は少しかすれている。店名の横に描かれた馬らしきものは、馬なのか犬なのかよく分からない。
「これ、昔からあったんですか」
「たぶんね」
「たぶん」
「カップに聞いて」
佐知はカップを裏返して、ふきんで底を拭いた。水の跡が取れて、かわりに細い傷が見えた。きれいになったというより、汚れの下に別の古さが出てきた感じだった。
一つ拭いて、並べる。
少し離して、もう一つ。
同じ形のものは、二つしかない。三つ目からは高さも厚みも違った。喫茶店の備品というより、残っていたものの集まりだった。
それでも、カウンターに並ぶと、何かを待っているように見える。
佐知はそこを撮りたいと思った。
思っただけで、ふきんを握る手に力が入った。
カメラを向ける前から、頭の中ではもう少し右、もう少し低く、と誰かが言い始める。佐知はその声に従う前に、カップをもう一つ拭いた。まず手を動かすほうが、今日はましだった。
床のほうで、弓削が「あー」と変な声を出した。
カウンターの下から、片方だけ鳴るスピーカーのケーブルが伸びている。弓削は膝をついて、ケーブルの先を抜いたり差したりしていた。古いアンプのつまみを回すたび、スピーカーから、ザ、という砂を踏むような音が出る。
「壊しました?」
やえが入口のほうから言った。
「壊れてるものを壊した場合って、罪軽いっすかね」
「重いです。往生際が悪いので」
「高校生、判定が厳しい」
弓削がつまみを少し戻すと、スピーカーの片方からだけ、細い音楽が流れ始めた。前に聞いた時よりも音が小さい。曲の頭が少し欠けて、歌の声だけが遅れて出てきた。
ハルエはカップを拭きながら、何も言わない。
佐知はその音を聞いて、スマホを取り出しかけた。
ポケットに指を入れ、そこで止まる。まだ早い、と誰かが言ったわけではない。撮れ、と言われたわけでもない。ただ、指がスマホの角に触れた瞬間、欠けた書類の写真が頭に浮かんだ。
昨日、消さなかった写真。
消していないものが一つあるだけで、次に触る画面が少し違って見える。
「阿久津さん、ぼーっとしてます」
やえが言った。
佐知は顔を上げた。
やえは紙ナプキンを一枚持っていた。前にハルエが黒いペンで書いた、開けとく日、の文字がある。紙は薄く、ペンのインクが少し裏に抜けている。端には指の跡みたいな小さな折れがあった。
「貼るんですか」
「貼らないと、開けとく日が迷子になるんで」
「日が迷子」
「概念ってすぐ迷子になりますよ」
「概念とか言わないで」
やえはセロハンテープを歯で切ろうとして、ハルエに「汚い」と言われ、しぶしぶ手でちぎった。うまく切れず、テープが指にまとわりつく。
「これ、どこ貼ります?」
「ガラスでいいんじゃない」
ハルエが言った。
「外から見えるように?」
「見えなくてもいいよ。貼ってあるって分かれば」
「雑」
「雑に貼る日だからね」
「そんな日じゃないです」
やえは文句を言いながら、ガラス戸の内側へ向かった。
佐知は店の外を見た。ガラスの向こうには、いつもの駅北口の道がある。自転車が通り、買い物帰りの人が通り、誰も喫茶ポニー跡を特別なものとして見ていない。閉まっていた店の戸が少し開いていても、立ち止まる人はほとんどいない。
その普通さが、少しだけよかった。
やえは紙ナプキンをガラスに当てた。
「曲がってる」
佐知が言うと、やえは振り向かずに返した。
「味です」
「逃げ方が早い」
「阿久津さんに言われたくないです」
やえの指が、テープを押さえる。紙ナプキンはガラスの内側に貼りついた。外から見たら、文字は少し読みにくいかもしれない。内側から見ても、十分に曲がっていた。
開けとく日。
黒い文字が、ガラスに浮いた。
ガラスの向こうでは、自転車の前かごが一瞬だけ白く光って通り過ぎた。紙ナプキンの薄さのせいで、外の道の色が文字の裏に少し透けている。
佐知はスマホを取り出した。
カメラを開く。画面の中に、紙ナプキンと、ガラスの向こうの道と、やえの指先が入った。
シャッターボタンに指を近づける。
けれど、やえの指がまだテープの端を押さえているのを見て、佐知は少し待った。
その指を入れるか外すかで、写真の意味が変わる気がした。変わるなら、まだ決めなくてよかった。
まだ押さずに、見た。
紙がガラスに貼りついて、店の中に今日だけの名前ができるところを、佐知は見た。
やえの指が離れると、テープの端がほんの少し浮いた。佐知はその浮いた角まで、画面の中に入れたままにしていた。




