第080話 トチュウノチ・四
大学の建物を出ると、外の暑さが戻ってきた。
冷房で冷えた腕に、湿った空気がくっつく。キャンパスの木の葉は、ほとんど動いていなかった。遠くで誰かが笑い、別の誰かが自転車のベルを鳴らした。
佐知は、学生支援課でもらった案内の紙を鞄に入れた。
折れた休学延長の書類は、別のポケットに入れてある。さっき写真を撮ったせいで、紙そのものをしまう時に少しだけ手が止まった。写真にしたから紙が軽くなるわけではない。けれど、鞄の底だけに沈んでいた時とは、少し違う場所にある気がした。
駅へ向かう道の途中、佐知は日陰で立ち止まった。
歩道の端に、細い街路樹が一本ある。日陰というには頼りない影だったけれど、直射日光よりはましだった。佐知はそこに立って、スマホを開いた。
母とのトーク画面を出す。
最後に母から来ているのは、昨日の留守電のあとに送られた短いメッセージだった。
無理に電話しなくていいからね。
その下に、佐知の返事はない。
入力欄を押す。キーボードが出る。何から書けばいいのか分からず、佐知は一度スマホを下ろした。
大学へ行った。
相談した。
でも、決めてはいない。
それを送ると、母は安心するかもしれない。余計に心配するかもしれない。次に何を聞かれるかも分からない。
佐知は、写真アプリを開いた。
さっき撮った折れた書類の写真が、一番新しいところにあった。サムネイルでも、斜めなのが分かる。誰かに見せるための写真ではない。きれいな報告でもない。
佐知はその写真を開き、すぐ閉じた。
母に送るものではなかった。
母から隠すというより、まだ言葉にしないといけないものだった。写真を送れば説明したことになる、という形に逃げたくなかった。
佐知はもう一度、母とのトーク画面を開いた。
入力欄に文字を打つ。
まだ決めてる途中。今日、大学で相談してきた。もう少し待って
打ち終わってから、何度も読み返した。
ごめん、と入れたくなった。消した。大丈夫、と入れたくなった。嘘になるので入れなかった。ありがとう、も違う気がした。
文は短い。
短いのに、送信ボタンまでが遠かった。
佐知は親指を画面の上で止めた。昨日の留守電の母の声が、頭の中で少しだけ再生される。まだ決まってないなら、それでもいいから。
それでもいい、を本当にそれでもいいことにするには、こっちから言わないといけない。
佐知は送信した。
緑の吹き出しが画面に出た。
すぐに既読はつかなかった。佐知はそれを見て、少しだけ息を吐いた。返事がすぐ来ないことに、助かったと思っている自分がいた。
次に、やえのトーク画面を開く。
昨日の最後は、やえが送ってきた変なスタンプだった。水のペットボトルみたいなキャラクターが、なぜか土下座している。何に使うつもりで入れているのか分からない。
佐知は写真を送ろうとして、写真選択の画面を開いた。
一番新しいところに、折れた休学延長の書類がある。
その横には、何日か前に撮ったわけでもない写真が並んでいた。やえから送られてきたブレた写真。喫茶ポニー跡のメニュー。片方だけ鳴るスピーカーの端。自分では撮らなかったはずのものも、保存したせいでそこに混ざっている。
佐知は書類の写真に触れなかった。
これは、やえに採点してもらうものでも、笑ってもらうものでもない。見せたら軽くなるかもしれないが、軽くするためだけに送るのは違う気がした。
写真選択を閉じる。
入力欄に文字を打つ。
改札通った
それだけ送った。
今度は、少しして既読がついた。
返事はすぐ来た。
改札に勝ったんですね
佐知は画面を見ながら、駅へ向かって歩き出した。
勝負じゃない
と打って送る。
すぐに返ってくる。
じゃあ何ですか
佐知は考えた。歩きながら打つのは危ないので、駅前の信号で止まる。
通過
送ると、やえから少し間を置いて返事が来た。
地味
佐知は、信号が青になるのを待ちながら、画面を閉じた。
地味でいい。
大学へ行ったことも、相談したことも、改札を通ったことも、どれも地味だった。駅前で花火が上がるわけでもないし、誰かが拍手するわけでもない。汗は普通に出る。鞄は重い。喉は乾く。
それでも、行く前とは違う。
夕方、佐知は丸藤第六ビルへ戻った。
喫茶ポニー跡のガラス戸は少し開いていて、中からハルエの声が聞こえた。弓削が何かを落としたらしく、ハルエが「今のは割れてない音」と言っている。
「割れてない音って何すか」
「割れてたらもっと高い」
「経験値が嫌ですね」
佐知は戸口から中をのぞいた。
ハルエがこちらを見て、「おかえり」と言った。
「ただいま、ではないです」
「じゃあ、いらっしゃい」
「どっちでもないです」
「面倒だね」
ハルエはそれ以上聞かなかった。カウンターの上には、古いカップがいくつか並んでいる。洗われたものと、まだ水気の残るもの。開けとく日の準備は、少しずつ店の形を借り始めていた。
「上、いるよ」
ハルエが言った。
佐知はうなずいて、階段へ向かった。
屋上に出ると、やえはフェンスの近くにいた。制服ではなく、ゆるいTシャツを着ている。スマホを持っていたが、何かを撮っているわけではなかった。
「大学の顔してますね」
やえが言った。
「それ、前も言った」
「言いやすいんで」
「雑に使い回すな」
佐知は隣に立った。フェンスの向こうで、夕方の駅が光っている。昨日より少し雲が多く、空の色はまだらだった。
やえは佐知の鞄を見た。
「決めたんですか」
佐知はすぐには答えなかった。
鞄の中には、案内の紙と、折れた書類がある。スマホの中には、その写真がある。母には返事をした。やえには写真を送らなかった。
どれも、決めた、とは違う。
「まだ決めてる途中」
佐知は言った。
声にすると、母に送った文字より少し頼りなかった。
やえはフェンスの外を見たまま、「途中、長いですね」と言った。
「うるさい」
「いいですけど。途中っぽい顔してるんで」
「どんな顔」
「改札に勝った人の顔」
「勝ってない」
佐知はスマホを取り出した。写真アプリは開かない。トーク画面も開かない。ただ、暗い画面に自分の指が映った。
撮った写真は、まだ誰にも見せていない。
でも、消してもいなかった。




