第079話 トチュウノチ・三
大学の最寄り駅を出ると、空気の匂いが少し違った。
駅前にはチェーンのカフェがあり、バスロータリーがあり、知らない塾の看板があった。前に何度も見ていたはずなのに、どれも少し他人行儀に見えた。佐知が来ていなかった間も、店は開き、バスは回り、人は駅から大学へ歩いていた。
道の先に、大学の正門が見える。
佐知は鞄の持ち手を握り直した。折れた書類は底にある。駅の改札を通ったあと、電車の中で一度だけ取り出そうとしてやめた。車内で紙を広げる勇気はなかった。周りの人は誰も見ていないのに、全員が見ている気がした。
門の前で、学生らしい人たちがすれ違う。
半袖。日傘。リュック。サンダル。レポートの話。バイトの話。誰かの笑い声。
佐知は、その中に入るのが下手になっていた。
学生証を取り出す必要はなかった。正門は開いていて、守衛室の人も、通る人を一人ずつ止めたりしない。佐知はそのまま入った。止められないことが、少し困った。
キャンパスの舗装は、駅前より白かった。植え込みの土が乾き、ベンチの下に落ち葉がたまっている。掲示板には、試験日程、サークルの案内、忘れ物の知らせが貼られていた。
自分がいない間の連絡が、紙になって並んでいる。
佐知は掲示板をまっすぐ見ないようにして、学生支援課のある建物へ向かった。
入口の自動ドアが開く。冷房の空気が足首に当たった。外の暑さから急に切り離されて、体の表面だけが冷える。
廊下には、相談窓口の矢印が出ていた。
休学・復学・退学等手続き。
学生相談。
奨学金。
進路支援。
言葉が並んでいるだけなのに、全部が佐知の前で順番待ちをしているみたいだった。
佐知は、休学・復学の窓口の前で止まった。
窓口の中には、事務の人が二人いた。一人は電話をしていて、もう一人はパソコンに何かを入力している。佐知が立ったことに気づくと、入力していた人が顔を上げた。
「はい」
普通の声だった。
責める声ではない。驚く声でもない。窓口に来た人へ向ける、普通の声。
それだけで、佐知は一回言葉を落とした。
「あの」
「はい」
「休学の、手続きのことで」
「お名前と学籍番号、分かりますか」
佐知は学生証を出した。手が少し滑って、カードがカウンターの上で斜めになった。事務の人はそれをまっすぐに直して、番号を確認した。
「阿久津佐知さんですね。少々お待ちください」
名前を呼ばれると、逃げる場所が減る。
佐知はうなずいた。
事務の人が画面を見ながら、書類を一枚出した。白い紙。チェック欄。期限。必要な面談。提出先。そこには、メールで見た言葉が同じように並んでいた。
「休学期間が満了になりますので、復学、休学延長、退学のいずれかで手続きが必要です。期限はこちらですね」
「はい」
「書類はお持ちですか」
佐知は鞄を開けた。
底から折れた書類を出す。角が曲がり、真ん中に強い折り目がある。何度も入れて、何度も出さずに戻した跡だった。
カウンターに置くと、紙は少し浮いた。
「すみません、折れてて」
「大丈夫ですよ」
事務の人は、折れた場所を指で押さえて見た。大丈夫、と簡単に言われると、佐知のほうが大丈夫ではなくなる。
「今日、提出されますか」
「いえ」
声が思ったより小さかった。
事務の人は急かさず、画面から目を上げた。
佐知は書類の端を押さえた。紙が浮いてくる。押さえないと、開こうとする。開いても、何かが決まるわけではない。
「まだ決められてないんですけど、相談できますか」
言ったあと、喉の奥が乾いた。
窓口の向こうで、事務の人が一度うなずいた。
「できます。学生相談と、学部の担当にもつなげられます。今日このあと、学生相談の空きが少しありますけど、どうしますか」
「今日」
「はい。話を聞いて、必要な手続きの確認をする形です。今日決めて提出しなきゃいけない、ということではありません」
今日決めなくていい。
その言葉を聞いても、佐知の体はすぐには軽くならなかった。軽くならない自分が面倒だった。
「お願いします」
佐知は言った。
相談室は、同じ建物の奥にあった。
小さな部屋で、丸いテーブルと椅子が三脚。壁には、無理をしないでください、みたいなポスターが貼ってあった。佐知はその文字を最後まで読まなかった。読んだら、文字の通りにできない自分が分かるだけだった。
相談員は、名前を聞き、学部を聞き、休学に入った時期を聞いた。佐知は答えられるところだけ答えた。
復学する自信がないこと。
休学を延ばすと言うのも、何を延ばしているのか分からないこと。
退学は、言葉にすると終わりすぎること。
母に返事をしていないこと。
写真の話はしなかった。
丸藤第六ビルの話もしなかった。
言わなかったことのほうが多かった。それでも、部屋を出る時、何も言っていないわけではなかった。
廊下に戻ると、冷房の空気がまた足首に当たった。
佐知はベンチに座った。隣には誰もいない。壁の時計は、思っていたより進んでいた。
鞄から書類を出す。
折れた休学延長の書類。
カウンターで押さえられたせいで、折り目が前よりはっきりしている。白い紙の真ん中に、まっすぐではない線が走っていた。
佐知はスマホを取り出した。
カメラを開く。
画面に書類が映った。斜めだった。ベンチの灰色と、自分の膝と、鞄の端も入っている。きれいではない。文字は少し読みにくい。影も入っている。
直そうとすれば直せた。
紙の向きをそろえて、影を避けて、余計なものを外して、もう少しましにできた。
佐知は直さなかった。
そのまま、シャッターボタンを押した。
小さな音が鳴った。
画面の端に、撮ったばかりの写真が出る。
折れた書類が、折れたまま写っている。自分の膝も、鞄の持ち手も、少しだけ写っている。
佐知はサムネイルを開いた。
写真はやっぱり斜めだった。よく見ると、紙の角が切れている。相談室の案内板の端も、ぼんやり入っている。
削除のアイコンが見えた。
押せば消える。
前に撮った喫茶ポニー跡の写真みたいに、すぐ消せる。最近削除した項目に移って、まだ残っていることを見ないふりすることもできる。
佐知は指を動かさなかった。
画面の中の書類は、折れていた。
決まっていないことも、相談しただけのことも、紙のしわみたいに写っていた。
佐知は写真アプリを閉じた。
消さずに、スマホを膝の上に伏せた。




