表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
79/96

第079話 トチュウノチ・三

大学の最寄り駅を出ると、空気の匂いが少し違った。


駅前にはチェーンのカフェがあり、バスロータリーがあり、知らない塾の看板があった。前に何度も見ていたはずなのに、どれも少し他人行儀に見えた。佐知が来ていなかった間も、店は開き、バスは回り、人は駅から大学へ歩いていた。


道の先に、大学の正門が見える。


佐知は鞄の持ち手を握り直した。折れた書類は底にある。駅の改札を通ったあと、電車の中で一度だけ取り出そうとしてやめた。車内で紙を広げる勇気はなかった。周りの人は誰も見ていないのに、全員が見ている気がした。


門の前で、学生らしい人たちがすれ違う。


半袖。日傘。リュック。サンダル。レポートの話。バイトの話。誰かの笑い声。


佐知は、その中に入るのが下手になっていた。


学生証を取り出す必要はなかった。正門は開いていて、守衛室の人も、通る人を一人ずつ止めたりしない。佐知はそのまま入った。止められないことが、少し困った。


キャンパスの舗装は、駅前より白かった。植え込みの土が乾き、ベンチの下に落ち葉がたまっている。掲示板には、試験日程、サークルの案内、忘れ物の知らせが貼られていた。


自分がいない間の連絡が、紙になって並んでいる。


佐知は掲示板をまっすぐ見ないようにして、学生支援課のある建物へ向かった。


入口の自動ドアが開く。冷房の空気が足首に当たった。外の暑さから急に切り離されて、体の表面だけが冷える。


廊下には、相談窓口の矢印が出ていた。


休学・復学・退学等手続き。


学生相談。


奨学金。


進路支援。


言葉が並んでいるだけなのに、全部が佐知の前で順番待ちをしているみたいだった。


佐知は、休学・復学の窓口の前で止まった。


窓口の中には、事務の人が二人いた。一人は電話をしていて、もう一人はパソコンに何かを入力している。佐知が立ったことに気づくと、入力していた人が顔を上げた。


「はい」


普通の声だった。


責める声ではない。驚く声でもない。窓口に来た人へ向ける、普通の声。


それだけで、佐知は一回言葉を落とした。


「あの」


「はい」


「休学の、手続きのことで」


「お名前と学籍番号、分かりますか」


佐知は学生証を出した。手が少し滑って、カードがカウンターの上で斜めになった。事務の人はそれをまっすぐに直して、番号を確認した。


「阿久津佐知さんですね。少々お待ちください」


名前を呼ばれると、逃げる場所が減る。


佐知はうなずいた。


事務の人が画面を見ながら、書類を一枚出した。白い紙。チェック欄。期限。必要な面談。提出先。そこには、メールで見た言葉が同じように並んでいた。


「休学期間が満了になりますので、復学、休学延長、退学のいずれかで手続きが必要です。期限はこちらですね」


「はい」


「書類はお持ちですか」


佐知は鞄を開けた。


底から折れた書類を出す。角が曲がり、真ん中に強い折り目がある。何度も入れて、何度も出さずに戻した跡だった。


カウンターに置くと、紙は少し浮いた。


「すみません、折れてて」


「大丈夫ですよ」


事務の人は、折れた場所を指で押さえて見た。大丈夫、と簡単に言われると、佐知のほうが大丈夫ではなくなる。


「今日、提出されますか」


「いえ」


声が思ったより小さかった。


事務の人は急かさず、画面から目を上げた。


佐知は書類の端を押さえた。紙が浮いてくる。押さえないと、開こうとする。開いても、何かが決まるわけではない。


「まだ決められてないんですけど、相談できますか」


言ったあと、喉の奥が乾いた。


窓口の向こうで、事務の人が一度うなずいた。


「できます。学生相談と、学部の担当にもつなげられます。今日このあと、学生相談の空きが少しありますけど、どうしますか」


「今日」


「はい。話を聞いて、必要な手続きの確認をする形です。今日決めて提出しなきゃいけない、ということではありません」


今日決めなくていい。


その言葉を聞いても、佐知の体はすぐには軽くならなかった。軽くならない自分が面倒だった。


「お願いします」


佐知は言った。


相談室は、同じ建物の奥にあった。


小さな部屋で、丸いテーブルと椅子が三脚。壁には、無理をしないでください、みたいなポスターが貼ってあった。佐知はその文字を最後まで読まなかった。読んだら、文字の通りにできない自分が分かるだけだった。


相談員は、名前を聞き、学部を聞き、休学に入った時期を聞いた。佐知は答えられるところだけ答えた。


復学する自信がないこと。


休学を延ばすと言うのも、何を延ばしているのか分からないこと。


退学は、言葉にすると終わりすぎること。


母に返事をしていないこと。


写真の話はしなかった。


丸藤第六ビルの話もしなかった。


言わなかったことのほうが多かった。それでも、部屋を出る時、何も言っていないわけではなかった。


廊下に戻ると、冷房の空気がまた足首に当たった。


佐知はベンチに座った。隣には誰もいない。壁の時計は、思っていたより進んでいた。


鞄から書類を出す。


折れた休学延長の書類。


カウンターで押さえられたせいで、折り目が前よりはっきりしている。白い紙の真ん中に、まっすぐではない線が走っていた。


佐知はスマホを取り出した。


カメラを開く。


画面に書類が映った。斜めだった。ベンチの灰色と、自分の膝と、鞄の端も入っている。きれいではない。文字は少し読みにくい。影も入っている。


直そうとすれば直せた。


紙の向きをそろえて、影を避けて、余計なものを外して、もう少しましにできた。


佐知は直さなかった。


そのまま、シャッターボタンを押した。


小さな音が鳴った。


画面の端に、撮ったばかりの写真が出る。


折れた書類が、折れたまま写っている。自分の膝も、鞄の持ち手も、少しだけ写っている。


佐知はサムネイルを開いた。


写真はやっぱり斜めだった。よく見ると、紙の角が切れている。相談室の案内板の端も、ぼんやり入っている。


削除のアイコンが見えた。


押せば消える。


前に撮った喫茶ポニー跡の写真みたいに、すぐ消せる。最近削除した項目に移って、まだ残っていることを見ないふりすることもできる。


佐知は指を動かさなかった。


画面の中の書類は、折れていた。


決まっていないことも、相談しただけのことも、紙のしわみたいに写っていた。


佐知は写真アプリを閉じた。


消さずに、スマホを膝の上に伏せた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ