第078話 トチュウノチ・二
「いい人って、こっちが悪者になりますよね」
やえは、水のペットボトルを両手で挟んだまま言った。
屋上の風が、言葉を持っていきそうで持っていかなかった。片方だけのスピーカーの音は、曲が変わったのか、さっきより少し明るい。けれど屋上まで届く頃には、やっぱり薄くなっていた。
佐知はスマホの画面を見た。母の留守電は再生済みになっている。未再生の印が消えただけで、何も終わっていない。
「母は、いい人っていうか」
「悪い人じゃない」
「うん」
「それが面倒なんですよ」
やえは言い切ってから、自分の膝の上を見た。制服のスカートの端に、フェンスの影が細く落ちている。まっすぐな線なのに、布のしわで何度も曲がっていた。
「怒鳴られたら、怒鳴られたって思えるじゃないですか」
「うん」
「でも、心配してます、待ってます、急かしてません、って顔されると」
やえはそこまで言って、ボトルのラベルをまた親指でこすった。
「戻らないほうが悪いみたいになる」
佐知は返事をしなかった。
やえの学校の話なのか、自分の母の話なのか、線が引けなかった。引こうとすると、どちらかの顔を見ないふりすることになる。
「ごめん」
佐知が言うと、やえは顔をしかめた。
「何のですか」
「昨日のも、今日のも」
「雑」
「まとめた」
「まとめると安くなりますよ」
「謝罪の量販店じゃない」
やえは少しだけ笑った。すぐに真顔に戻ったけれど、戻る途中の顔が残った。
佐知はそれを撮らなかった。
翌日の昼前、佐知は鞄に折れた書類を入れた。
家を出るまでに、何度も鞄のファスナーを開けた。書類があるか確かめる。財布があるか確かめる。学生証があるか確かめる。スマホがあるか確かめる。どれも入っているのに、足りないものがある気がした。
母には返事をしていない。
留守電は、昨夜のうちにもう一度聞いた。三回目は途中で止めなかった。止めなかっただけで、返事はできなかった。
玄関で靴を履いていると、廊下の奥から洗濯機の終わる音がした。家の中の音は、外へ出ようとする時だけ大きく聞こえる。
佐知は靴ひもを結び直した。
大学へ行く。
そう言葉にすると、復学するみたいだった。退学を決めるみたいでもあった。休学を延ばすみたいでもある。どれにも聞こえて、どれでもなかった。
ただ、大学へ行く。
駅までの道は暑かった。アスファルトの白い線が、日差しでぼんやり光っている。コンビニの前を通る時、冷たい飲み物を買うか迷って、買わなかった。買ったらそこで一回止まれる。止まる理由を作るのが、今は危なかった。
駅の入口に近づくと、人の流れができていた。
会社員。買い物袋を持った人。大学生らしい二人組。イヤホンをつけて、画面を見ながら歩く高校生。
佐知は自分の鞄の重さを確かめた。書類は底にある。何度も折ったせいで、紙の角が少し丸くなっている。きれいな書類ではない。きれいに持ってきた人の顔をするには、もう遅い。
改札が見えた。
最初の日、佐知はそこを通れなかった。
鞄には同じ種類の書類があった。駅まで来て、ICカードを持って、大学へ行くふりだけはできていた。改札機の前で足が止まり、後ろの人に軽く舌打ちされた。そこから北口へ流れて、丸藤第六ビルを見つけた。
今も、改札機は同じ顔をしていた。
銀色の天板。黒い読み取り部分。通れない時に閉まる透明な板。床の黄色い線。何も覚えていないみたいに、次々と人を通している。
佐知は立ち止まりかけた。
後ろから人の気配が近づいて、少し横へずれた。邪魔にならない位置で、スマホを握る。やえに何か送ろうとして、やめた。
行く前に言うと、行けなかった時に残る。
行けた後に言えばいい。
そう思った自分が、少し嫌だった。成功したものだけを見せようとしているみたいだった。失敗したところを見せないで、通れたところだけを送る。そうやって形を整えてから人に出す癖が、写真だけではなかったのだと分かる。
でも、今はそれ以上考えると、また止まる。
改札の前で止まっている人は、佐知だけではなかった。
少し離れたところで、年配の男の人が切符を持って駅員に何か聞いている。小さな子どもが母親の手を引っぱって、違う改札へ行こうとしている。ICカードの残高不足で板に止められた人が、後ろの人に軽く頭を下げて横へ抜けた。
止まること自体は、珍しくなかった。
誰でも止まる。
残高が足りなければ止まる。切符を間違えれば止まる。行き先が分からなければ止まる。
佐知だけが、止まる理由を立派にしすぎていた。
鞄の底にある紙は、立派でも何でもない。折れている。角が丸い。必要事項の欄は、まだ空いている。
それを持って通るのが、今日の佐知だった。
佐知はICカードを出した。
手のひらの中で、カードの端が汗で湿っている。読み取り部分に乗せるだけでいい。乗せて、音が鳴って、通るだけ。
それだけのことを、前はできなかった。
一歩進む。
カードを当てる。
ピ、と短く鳴った。
透明な板は動かなかった。赤いランプもつかなかった。
佐知は、そのまま改札を抜けた。
通った先にも、別に何もなかった。天井の案内板があり、ホームへ降りる階段があり、電車を待つ人たちがいる。大学までの道が、突然まっすぐになるわけでもない。
けれど、佐知は改札の内側にいた。
振り返ると、さっきまで立っていた場所を、別の人がもう歩いていた。
佐知はスマホを取り出した。
画面を開いて、やえの名前を出す。文字を打ちかけて、消した。
まだ送らない。
送らないことも、逃げかもしれない。けれど、今は改札を通ったばかりの足を、そのまま先へ運ぶほうを選んだ。報告で息を継ぐと、そこで座り込んでしまいそうだった。
階段の下から、電車の風が上がってきた。
ホームへ向かう階段の上で、佐知は一度だけ鞄の底に手を入れた。折れた書類の角が指に当たる。
紙は、ちゃんとあった。
佐知は階段を降りた。




