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第077話 トチュウノチ・一

片方だけのスピーカーの音は、屋上まで来ると別の曲みたいに薄くなっていた。


下ではもう少しちゃんと鳴っているのかもしれない。屋上では、風が音の端を削って、ベースも歌もばらばらにしていた。給水塔の影が床に長く伸び、フェンスの下にたまった砂が、時々かすかに動いた。


やえはペットボトルの水を膝の上に置いていた。ラベルは半分はがれていて、指でそこをなぞっている。佐知の麦茶は、足元に置いたままぬるくなっていた。


二人ともスマホを出している。


けれど、カメラは開いていなかった。


やえが何かを撮ろうとしているわけでもなく、佐知が何かを撮れずにいるわけでもない。ただ、しまうタイミングを逃したみたいに、手元に置いていた。


佐知のスマホが震えた。


短い振動ではなかった。画面が明るくなり、すぐ暗くなり、もう一度震えた。


佐知は手に取る前から、相手が分かった気がした。


画面には、母、と表示されていた。


不在着信が一件。


その下に、留守番電話の通知が出ている。


佐知は親指を画面の上で止めた。通知を横に払えば、それだけで見えなくなる。電源ボタンを押せば、暗い板に戻る。今まではそれで済んでいた。済んでいないのに、済んだふりだけはできた。


「電話ですか」


やえが聞いた。


「うん」


「出ないんですか」


「もう切れてる」


「じゃあ、勝ちですね」


「何に」


「電話に」


佐知は笑わなかった。やえも笑わせる気で言った顔ではなかった。水のボトルを持ち上げて、ふたを開ける。ペキ、と軽い音がした。


佐知は留守電の再生ボタンを押した。


スピーカーにするつもりはなかった。耳に当てるのも変で、画面の下から小さく出る音を、そのまま手元で聞いた。


『佐知。今、出られないなら大丈夫です』


母の声は、いつもより少し低かった。家の台所で電話している時の声ではない。人のいる場所で、声の大きさを抑えている時の声だった。


『何回も送って、ごめんね。急かしたいわけじゃなくて』


佐知は、そこで一度止めた。


親指が勝手に画面を押していた。母の声は途中で切れ、屋上にはまた、片方だけのスピーカーの音と風だけが戻った。


やえは何も言わなかった。


佐知はスマホを伏せようとして、やめた。画面を上向きに戻す。留守電の秒数はまだ残っている。白いバーの途中で、丸い点が止まっていた。


途中で止めた声は、途中で止めたまま残る。


それが急に嫌だった。


佐知は、もう一度再生した。


今度は最初からだった。


『佐知。今、出られないなら大丈夫です。何回も送って、ごめんね。急かしたいわけじゃなくて』


母はそこで一度息を吸った。


『まだ決まってないなら、それでもいいから。決まってないって言ってくれれば、それでいいから』


屋上の風が、少し強くなった。佐知の前髪が目に入る。払う手が遅れて、画面の母の名前がにじんだように見えた。


『大学に一人で行けないなら、電話でもいいと思うし。お母さんが一緒に行くってことでもなくて、佐知が嫌なら行かないし。ただ、期限だけはあるから。返事だけでも、今日じゃなくてもいいから』


留守電は、最後に小さな生活音を残した。たぶん、母がどこかの扉を押した音だった。


『ごめんね』


そこで切れた。


謝られると、怒る場所がなくなる。


佐知はスマホを持ったまま、膝の上の麦茶を見た。ボトルの表面についた水滴はもうほとんど乾いていた。コンビニを出た時は冷たかったはずなのに、今は指で触ってもただのぬるいプラスチックだった。


「お母さんですか」


やえが言った。


「うん」


「怒ってました?」


「怒ってない」


「それは、嫌ですね」


佐知はやえを見た。


やえは水を飲んでいた。飲み口から唇を離して、ふたを閉める。別に名言を言った顔ではなかった。普通に、ペットボトルのふたを最後まで回している。


「怒ってくれたほうが楽な時、あります」


「やえの話?」


「阿久津さんの話です」


「ずるい」


「便利なんで」


佐知はスマホの画面を見た。留守電の通知は、聞き終わったあとも消えずに残っていた。再生済みの小さな印がついただけで、母の名前はまだそこにある。


「まだ決まってないなら、それでもいいからって」


口に出すと、さっきより短い言葉になった。


母の声には、もっといろいろなものが混ざっていた。謝り方。待とうとする感じ。待ちきれなさ。期限という言葉をなるべく軽く言おうとして、軽くできていないところ。


佐知がやえに言えたのは、そのうちの一行だけだった。


「それ言われたら、何か言わないといけないじゃないですか」


「そう」


「でも、言っていいんじゃないですか。決まってないって」


「ハルエさんみたいなこと言う」


「最悪ですね」


「本人に言いなよ」


「死にます」


やえは大げさに言って、フェンスのほうを向いた。屋上のフェンス越しに、駅の明かりが点き始めていた。車のライトが道路を細く流れて、ビルの壁を一瞬だけ白くした。


佐知はスマホをロックしなかった。


留守電の画面を開いたまま、カメラのアイコンだけを見た。そこを押せば、屋上も、やえの横顔も、ぬるくなった麦茶も映る。母の声は映らない。自分が途中で止めたことも、二回目に最後まで聞いたことも、映らない。


画面の黒い部分に、自分の親指がぼんやり映っていた。爪の端が少し欠けている。朝、引っかけてそのままにしたところだ。そういう細かいだらしなさだけが、妙にはっきり見えた。


これなら撮れるかもしれない、と思って、すぐに嫌になった。


撮りたいものを探しているのではなく、撮れそうな情けなさを探しているだけだった。


でも、スマホは手にあった。


「やえ」


「はい」


「私、返事してない」


「知ってます」


「知らないでしょ」


「顔でだいたい」


「やな高校生」


「やな大学生に言われたくないです」


佐知は少しだけ息を吐いた。笑いになる前の、失敗した空気みたいな音だった。


下のスピーカーの音が、曲の切れ目で一瞬なくなった。


屋上が静かになった。


佐知はスマホを閉じず、留守電の通知も消さなかった。


消せば楽になるものが、画面の上に残っていた。

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