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第076話 ミテルノミ・四

歩道橋の上で、しばらく風だけが動いていた。


佐知はスマホを手に持ったままだった。


やえも同じだった。


二人とも、画面は暗い。


撮らないまま、しまわない。


その状態は落ち着かなかった。


落ち着かないのに、しまうほうがもっと違う気がした。


「戻りますか」


やえが言った。


佐知はすぐに意味を取れなかった。


「どこに」


「丸藤第六ビル」


「戻るの」


「阿久津さんが来たので」


「私が来たから?」


「来た人は帰るんですよ」


やえはそう言って、歩き出した。


来た人は帰る。


雑な言い方だった。


でも、佐知には少し助かった。


ここからどうするのかを、まだ決められなかったから。


やえが階段へ向かう。


佐知も続いた。


歩道橋の階段を下りると、下の道の暑さが戻ってきた。風が弱くなり、アスファルトの熱が足元から上がる。駅裏のコンビニの自動ドアが開いて、冷房の白い空気が一瞬だけ外へ漏れた。


「飲み物」


佐知が言った。


やえが振り向く。


「何ですか」


「いる?」


「急に大人」


「いらないならいい」


「いります」


言うのが早かった。


佐知は少しだけ笑いそうになった。


笑わなかった。


コンビニに入ると、明るさが目に痛かった。


棚の値札。


床の白さ。


冷蔵ケースの光。


全部が、歩道橋の上よりはっきりしている。


やえはペットボトルの水を取った。


佐知は麦茶を取った。


「逆じゃないですか」


やえが言う。


「何が」


「阿久津さん、水っぽいです」


「水っぽいって何」


「味がない顔」


「失礼」


「今日は麦茶の顔ですか」


「知らない」


やえは水を持ったまま、少しだけ笑った。


さっきより自然に見えた。


でも、笑いきったわけではない。


レジで会計をするあいだ、二人はあまり話さなかった。


店員がバーコードを読み、袋はいらないと言い、レシートは断る。


外へ出ると、やえが水のキャップを開けた。


「お金」


「いい」


「嫌です」


「じゃあ今度」


「今度って便利」


「便利でいい」


やえは水を飲んだ。


飲み方が少し雑で、口元に水が一滴ついた。


佐知はそれを見た。


見た。


ただ、それだけにした。


スマホは手にある。


カメラを開けば、その一滴も、やえの横顔も、駅裏の道も入る。


佐知は開かなかった。


でも、目はそらさなかった。


やえが気づいた。


「何ですか」


「水、ついてる」


「撮ればよかったのに」


やえは軽く言った。


佐知は首を振った。


「撮らない」


「撮らないんですね」


「うん」


「見てるのに」


「見てる」


やえは少しだけ黙った。


それから、袖で口元を拭いた。


「変なの」


「変だね」


今度は、やえがそれ以上突っ込まなかった。


丸藤第六ビルへ戻る道は、さっきより短く感じた。


行きは、写真と実物を見比べて歩いた。


帰りは、やえが隣にいる。


それだけで、道の見え方が違う。


同じコンビニ。


同じバス停。


同じ歩道橋。


でも、手がかりではなくなっている。


やえは途中でスマホを開いた。


佐知は少しだけ身構えた。


やえはカメラではなく、トーク画面を見ていた。


「何」


佐知が聞く。


「阿久津さんの『今日来ないの』を見てます」


「今?」


「はい」


「何で」


「短いなと思って」


「そっちも短かったでしょ」


「今日はいいです」


やえは自分の返事を読み上げた。


「短いですね」


「うん」


「感じ悪い」


「自分で言うんだ」


「言えます」


やえは画面を閉じた。


「でも、来なくてよかったです」


佐知は返事をしなかった。


やえは続けなかった。


その言葉は、次に置いておくしかなかった。


丸藤第六ビルの入口に着くと、喫茶ポニー跡のガラス戸は開いていた。


中から弓削の声がした。


「あ、帰ってきた」


「犬みたいに言わないでください」


やえが返した。


弓削は少し驚いた顔をして、それから笑った。


「貝塚さん復活早いっすね」


「してないです」


「してない人のツッコミ速度じゃないっすよ」


ハルエはカウンターの中で紙コップを並べていた。


佐知とやえを見て、何も聞かなかった。


「上、行くなら水持ってきな」


「買ってきました」


やえが水のペットボトルを見せる。


「じゃあ枯れないね」


「草じゃないです」


「似たようなもんでしょ」


前にも聞いたやり取りだった。


少し戻ったようで、戻っていない。


佐知はそれを見た。


見ていると、やえがこちらを向いた。


「上、行きます?」


佐知はうなずいた。


階段を上る。


一階から屋上へ。


喫茶ポニー跡は一階だから、店を出て階段を下りる必要はない。今は店から奥の階段へ向かって上るだけだ。


屋上の扉を開けると、夕方の光が少し傾いていた。


プラ椅子はそのまま。


給水塔も、フェンスも、排水口も、そのまま。


佐知が一人で待っていた時と同じ場所なのに、少し違って見える。


やえはフェンスの近くへ行き、スマホを手に持ったまま立った。


佐知はプラ椅子には座らなかった。


その横に立つ。


「撮らないんですか」


やえが聞いた。


「撮らない」


「私も撮りません」


「珍しい」


「今日は、撮るほどじゃないので」


その言葉は、前にも聞いた。


佐知が言った言葉を、やえが返した日。


今日は少し違って聞こえた。


撮るほどじゃない。


撮らない。


見ない。


それぞれが、少しずつ違う。


やえはスマホをしまわなかった。


佐知もしまわなかった。


二人の黒い画面が、夕方の屋上で小さく光を返している。


何も撮らない。


それでも、見ている。


佐知はやえを見た。


やえも、屋上を見ていた。


見ないふりをしないまま、二人はしばらくそこにいた。


屋上の下で、片方だけのスピーカーが小さく鳴り始めた。


音は薄く、風に混ざって少しだけ届いた。

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