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第075話 ミテルノミ・三

「見ないでください」


やえが言った。


佐知は一瞬、目を伏せかけた。


でも、途中で止めた。


やえは佐知を見ていなかった。


手すりの下の道を見ている。


それでも、佐知が見ていることは分かったらしい。


謝る言葉が喉まで来て、そこで止まった。


飲み込むだけで、少し苦かった。


「見ないでって言われて、すぐ謝るのも変ですね」


「変だね」


「認めるの、ずるいです」


やえはスマホを持ち直した。


画面は暗いまま。


暗いままなのに、佐知にはそこに学校や家の写真が入っていないことが分かる。


入っていないものが、今は一番大きい。


「私、見ないほうがいいって思ってた」


佐知は言った。


やえが少しだけ顔を向けた。


「何をですか」


「学校のこととか、家のこととか」


「今さらですね」


「うん」


「うん」


やえがまねをした。


佐知は少しだけ息を吐いた。


笑えなかった。


「聞いたら、踏み込みすぎると思ってた」


「それ、優しいと思ってました?」


やえの声は平らだった。


佐知はすぐに答えられなかった。


優しいと思っていた。


そう言えば、ひどい。


思っていなかったと言えば、嘘になる。


黙ると、やえが先に言った。


「阿久津さん、ずっと見ないふりしてたくせに」


言葉は強かった。


でも、大きな声ではなかった。


佐知は手すりを握った。


指の腹に、剥げた塗装のざらつきが当たる。


「そうだね」


「また認める」


「違うって言えない」


「言えばいいのに」


「言えない」


やえは佐知を見た。


目が合った。


いつもなら、佐知はそこで少し目をそらす。


今回はそらさなかった。


そらさないだけで、何かが解決するわけではない。


でも、そらしたら、また同じ場所へ戻る。


「聞かないことを、優しいみたいに思ってた」


佐知は言った。


「はい」


「でも、たぶん違った」


「たぶん」


「自分が失敗したくなかった」


言葉にすると、思ったよりはっきりした。


失敗したくなかった。


やえを傷つけたくなかった。


それも少しは本当だと思いたい。


でも、その手前に、自分が傷つけた人になるのが怖かった。


踏み込んで嫌がられるのが怖かった。


正論っぽいことを言って失敗するのが怖かった。


だから、聞かないほうへ逃げた。


聞かないまま、見ていた。


見ていたのに、見ないふりをした。


「自分を守ってた」


佐知は言った。


言ったあとで、胸の奥が少し冷えた。


写真を撮れない自分を先に嫌になる。


大学へ行けない自分を先に嫌になる。


母へ返事できない自分を先に嫌になる。


そうしておけば、それ以上責められない気がしていた。


でも、嫌になっている間も、相手は目の前にいる。


やえは、佐知の自己嫌悪の中に片づけられるために立っているわけではない。


その当たり前のことが、今さら手すりの風みたいに冷たかった。


佐知は、やっと少しだけ顔を上げた。


やえは何も返さなかった。


それが、返事のようだった。


歩道橋の上を、自転車を押した人が通り過ぎた。


二人は少し端へ寄る。


その人が通り過ぎるまで、会話は止まった。


止まっている間、佐知はスマホを持つ自分の手を見た。


やえを探すために、やえの写真を見た。


やえを撮るためではない。


でも、やえを見つけたあとも、手からスマホを離していない。


自分でも理由が分からなかった。


「それ」


やえが言った。


佐知は顔を上げる。


「スマホ」


「あ」


佐知は少しだけ手を下げた。


「撮りたいんですか」


佐知は息を止めた。


撮りたい。


そう思っているのか分からなかった。


分からない、と逃げたい。


でも、画面を見なくても、自分の手がスマホを握っている。


見つけたやえ。


閉まった校門。


歩道橋の風。


手すりの剥げた緑。


撮れば、何かになる。


でも、撮ると、やえの今を勝手に残すことになる。


撮らないと、また見ないふりに戻る気がする。


どちらも怖い。


「分からない」


佐知は言った。


やえは眉を寄せた。


「便利」


「今のは本当に分からない」


「分かってても、そう言いそうです」


「そうかも」


やえは小さく息を吐いた。


「撮らないでって言ってないです」


佐知はやえを見た。


やえは目をそらさなかった。


「でも」


「撮るなって言ってない」


同じようで、少し違う言い方だった。


佐知の手が固まった。


やえは続けた。


「勝手に撮られたら嫌です。たぶん怒ります」


「うん」


「でも、撮るなって言ってないです」


「どう違うの」


「それくらい自分で考えてください」


やえはそう言って、少しだけ口の端を上げた。


いつもの軽さが少し戻った。


でも、完全には戻っていない。


佐知は、撮っていいか聞けばいいのだと思った。


それはたぶん正しい。


でも、今のやえに「撮っていい?」と聞くことは、まだ違う気がした。


聞けば、やえは答えなければならない。


いいと言うか、嫌と言うか、どちらかを選ばされる。


昨日からずっと、佐知はやえに選ばせてばかりいる。


来るか、来ないか。


許すか、許さないか。


見せるか、隠すか。


そのたびに、自分は聞く側の顔をしてきた。


聞くだけなら、責任が軽い。


でも、軽いままでは、目の前のやえを見ていることにならない。


佐知はスマホを見た。


カメラは開いていない。


親指を動かせば、すぐ開ける。


開いたら、やえを画面に入れることはできる。


でも、今、必要なのはそこではない気がした。


佐知はスマホをしまわなかった。


下ろしただけだった。


やえもスマホをしまわなかった。


二人の手の中に、黒い画面が一つずつ残った。


撮らない。


でも、見ないふりもしない。


その違いは、まだうまく言えなかった。


言えないまま、佐知はやえの顔を見ていた。


逃げる場所は、もう少し狭くなっていた。

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