第074話 ミテルノミ・二
歩道橋の下を、バスが一台通った。
小さなバスだった。
車体の横に、地域の名前が丸い文字で書かれている。窓には、空と電線が薄く映っていた。停留所の前で止まり、誰も乗らないまま、また動き出す。
やえはそのバスを見ていた。
佐知はやえの横顔を見ていた。
見ていることに気づかれたくなくて、少し目をそらす。
でも、完全にはそらせなかった。
「心配って」
やえが言った。
「されると戻れなくなるんですよ」
佐知は手すりを握った。
緑の塗装の剥げたところが、指に引っかかる。
「戻るって」
「学校とか、家とか」
やえは簡単に言った。
簡単に言っただけで、軽くはなかった。
「心配されたら、戻りやすくなるんじゃないの」
佐知は言ってから、また失敗したと思った。
やえはすぐに笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ、少しだけ肩をすくめた。
「普通はそうなんじゃないですか」
「普通」
「戻ったら、よかったねってなるじゃないですか」
「うん」
「その、よかったねが、もう無理なんですよ」
やえは手すりに指を置いた。
爪の先が、剥げた塗装を少しこする。
「一日休んだだけなら、風邪とか言えるんです」
佐知は黙って聞いた。
「二日なら、まだ体調悪かったで済むし」
やえは下の道を見た。
「一週間になると、みんな少し優しくなるんです」
優しくなる。
佐知はその言葉が、少し嫌な形で響くのを感じた。
やえは続けた。
「大丈夫?って聞かれる。無理しないでって言われる。先生も、友達も、家も」
家。
その言葉が出た。
佐知は顔を動かさなかった。
「最初は、ありがたいんですよ。たぶん」
「たぶん?」
「ありがたいってことにしないと、こっちが悪い感じになるので」
やえは少し笑った。
笑い方は小さかった。
「でも、心配されると、戻った時に元気なふりしないといけないじゃないですか」
「元気なふり」
「心配してもらったぶん、よくなった人の顔で戻らないといけない」
佐知は何も言えなかった。
母のLINEが頭に浮かぶ。
一人で決めなくていいからね。
返事だけでもして。
心配は悪意ではない。
悪意ではないものほど、受け取れない自分が悪いように見える。
「それが嫌で」
やえは言った。
「戻るタイミング、どんどん分からなくなって」
「うん」
「うんって、便利ですよね」
「聞いてる」
「知ってます」
やえはスマホを持ち上げた。
画面は暗い。
やえは開かなかった。
「学校も家も、撮らないようにしてたんです」
佐知は息を止めた。
ようにしていた。
前は「撮るものないです」と言っていた。
家はもっとないです、とも言った。
あれは逃げるための言葉だった。
今、やえは少し違う言い方をした。
「撮らないように?」
「はい」
「撮るものないんじゃなくて」
「ないってことにしてました」
やえはスマホの黒い画面を親指でなぞった。
「教室も、廊下も、門も、玄関も、食卓も、洗面所も、撮ろうと思えば撮れますよ」
佐知はやえを見た。
やえの顔は、校門のほうを向いていない。
それでも、言葉だけがそちらへ伸びている。
「撮ったら、あとで見返せるじゃないですか」
やえは言った。
「今日は行かなかった、って言い張っても、画面に門がある。家に帰ってないふりしても、画面に洗面所がある。そういうの、ずるできない」
「ずる」
「はい。ずるです」
やえは自分で言って、少しだけ笑った。
「丸藤第六ビルは、ずるできるんです。来ても、来てないみたいにできる。写真撮っても、別に大事じゃないみたいにできる」
佐知は屋上の写真を思い出した。
排水口。
輪ゴム。
ふきん。
アイスの棒。
どれも、大事じゃない顔をして残っていた。
だから、やえはそこに逃げられたのだと思った。
大事じゃない顔をしたものだけを、いくつも持っていられた。
「でも、撮ったら、あるってことになる」
前にも聞いた言葉だった。
屋上で。
家の話になった時。
やえは同じことを言った。
佐知はその時、うまく返せなかった。
今も、うまく返せる気はしなかった。
「あるって分かってるから、撮らないって言ってた」
佐知が言うと、やえは少し目を細めた。
「覚えてるんですね」
「覚えてる」
「嫌なことばっか覚えますね」
「嫌だった?」
「嫌です」
やえは即答した。
それで佐知は黙った。
やえは下の道を見たまま続けた。
「撮らなければ、まだ行ってないだけで済む」
言葉は、風の中で小さく置かれた。
佐知はすぐに意味を取れなかった。
でも、遅れて分かる。
学校を撮らなければ、戻れていない場所ではなく、まだ行っていない場所でいられる。
家を撮らなければ、帰りづらい場所ではなく、まだ帰っていない場所でいられる。
撮らなければ、あることにしなくて済む。
「済むって」
佐知は言いかけた。
昨日、自分が言った言葉が重なった。
高校生で済むから。
佐知は口を閉じた。
やえはその沈黙に気づいたようだった。
「阿久津さんの済むとは違います」
「分かってる」
「分かってます?」
「今、分かろうとしてる」
やえは少しだけ笑った。
笑ったというより、息を抜いた。
「便利な言い方ですね」
「便利じゃない」
「便利です」
やえはスマホを持つ手を下げた。
「撮らなかったら、まだ途中みたいにできるんです」
佐知は鞄の中の書類を思い出した。
折れた休学書類。
撮れなかった紙。
母に送れなかった文字。
自分も、撮らなければ途中のままでいられると思っていた。
でも、途中は勝手に長くなる。
長くなると、戻り方が分からなくなる。
やえは下の道を見続けていた。
佐知は、今度はその横顔から目をそらさなかった。
何かを言えば、また失敗するかもしれない。
でも、見ないことは、もうできなかった。




