表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
74/96

第074話 ミテルノミ・二

歩道橋の下を、バスが一台通った。


小さなバスだった。


車体の横に、地域の名前が丸い文字で書かれている。窓には、空と電線が薄く映っていた。停留所の前で止まり、誰も乗らないまま、また動き出す。


やえはそのバスを見ていた。


佐知はやえの横顔を見ていた。


見ていることに気づかれたくなくて、少し目をそらす。


でも、完全にはそらせなかった。


「心配って」


やえが言った。


「されると戻れなくなるんですよ」


佐知は手すりを握った。


緑の塗装の剥げたところが、指に引っかかる。


「戻るって」


「学校とか、家とか」


やえは簡単に言った。


簡単に言っただけで、軽くはなかった。


「心配されたら、戻りやすくなるんじゃないの」


佐知は言ってから、また失敗したと思った。


やえはすぐに笑わなかった。


怒りもしなかった。


ただ、少しだけ肩をすくめた。


「普通はそうなんじゃないですか」


「普通」


「戻ったら、よかったねってなるじゃないですか」


「うん」


「その、よかったねが、もう無理なんですよ」


やえは手すりに指を置いた。


爪の先が、剥げた塗装を少しこする。


「一日休んだだけなら、風邪とか言えるんです」


佐知は黙って聞いた。


「二日なら、まだ体調悪かったで済むし」


やえは下の道を見た。


「一週間になると、みんな少し優しくなるんです」


優しくなる。


佐知はその言葉が、少し嫌な形で響くのを感じた。


やえは続けた。


「大丈夫?って聞かれる。無理しないでって言われる。先生も、友達も、家も」


家。


その言葉が出た。


佐知は顔を動かさなかった。


「最初は、ありがたいんですよ。たぶん」


「たぶん?」


「ありがたいってことにしないと、こっちが悪い感じになるので」


やえは少し笑った。


笑い方は小さかった。


「でも、心配されると、戻った時に元気なふりしないといけないじゃないですか」


「元気なふり」


「心配してもらったぶん、よくなった人の顔で戻らないといけない」


佐知は何も言えなかった。


母のLINEが頭に浮かぶ。


一人で決めなくていいからね。


返事だけでもして。


心配は悪意ではない。


悪意ではないものほど、受け取れない自分が悪いように見える。


「それが嫌で」


やえは言った。


「戻るタイミング、どんどん分からなくなって」


「うん」


「うんって、便利ですよね」


「聞いてる」


「知ってます」


やえはスマホを持ち上げた。


画面は暗い。


やえは開かなかった。


「学校も家も、撮らないようにしてたんです」


佐知は息を止めた。


ようにしていた。


前は「撮るものないです」と言っていた。


家はもっとないです、とも言った。


あれは逃げるための言葉だった。


今、やえは少し違う言い方をした。


「撮らないように?」


「はい」


「撮るものないんじゃなくて」


「ないってことにしてました」


やえはスマホの黒い画面を親指でなぞった。


「教室も、廊下も、門も、玄関も、食卓も、洗面所も、撮ろうと思えば撮れますよ」


佐知はやえを見た。


やえの顔は、校門のほうを向いていない。


それでも、言葉だけがそちらへ伸びている。


「撮ったら、あとで見返せるじゃないですか」


やえは言った。


「今日は行かなかった、って言い張っても、画面に門がある。家に帰ってないふりしても、画面に洗面所がある。そういうの、ずるできない」


「ずる」


「はい。ずるです」


やえは自分で言って、少しだけ笑った。


「丸藤第六ビルは、ずるできるんです。来ても、来てないみたいにできる。写真撮っても、別に大事じゃないみたいにできる」


佐知は屋上の写真を思い出した。


排水口。


輪ゴム。


ふきん。


アイスの棒。


どれも、大事じゃない顔をして残っていた。


だから、やえはそこに逃げられたのだと思った。


大事じゃない顔をしたものだけを、いくつも持っていられた。


「でも、撮ったら、あるってことになる」


前にも聞いた言葉だった。


屋上で。


家の話になった時。


やえは同じことを言った。


佐知はその時、うまく返せなかった。


今も、うまく返せる気はしなかった。


「あるって分かってるから、撮らないって言ってた」


佐知が言うと、やえは少し目を細めた。


「覚えてるんですね」


「覚えてる」


「嫌なことばっか覚えますね」


「嫌だった?」


「嫌です」


やえは即答した。


それで佐知は黙った。


やえは下の道を見たまま続けた。


「撮らなければ、まだ行ってないだけで済む」


言葉は、風の中で小さく置かれた。


佐知はすぐに意味を取れなかった。


でも、遅れて分かる。


学校を撮らなければ、戻れていない場所ではなく、まだ行っていない場所でいられる。


家を撮らなければ、帰りづらい場所ではなく、まだ帰っていない場所でいられる。


撮らなければ、あることにしなくて済む。


「済むって」


佐知は言いかけた。


昨日、自分が言った言葉が重なった。


高校生で済むから。


佐知は口を閉じた。


やえはその沈黙に気づいたようだった。


「阿久津さんの済むとは違います」


「分かってる」


「分かってます?」


「今、分かろうとしてる」


やえは少しだけ笑った。


笑ったというより、息を抜いた。


「便利な言い方ですね」


「便利じゃない」


「便利です」


やえはスマホを持つ手を下げた。


「撮らなかったら、まだ途中みたいにできるんです」


佐知は鞄の中の書類を思い出した。


折れた休学書類。


撮れなかった紙。


母に送れなかった文字。


自分も、撮らなければ途中のままでいられると思っていた。


でも、途中は勝手に長くなる。


長くなると、戻り方が分からなくなる。


やえは下の道を見続けていた。


佐知は、今度はその横顔から目をそらさなかった。


何かを言えば、また失敗するかもしれない。


でも、見ないことは、もうできなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ