第073話 ミテルノミ・一
やえは校門のほうを見ないまま、道の端へ寄った。
佐知も少し遅れて動いた。
通学路なのか、ただの裏道なのか分からない道だった。白い塀に沿って、細い側溝が伸びている。ふたの隙間から、乾いた葉っぱが一枚だけ出ていた。
二人は並んで歩き出した。
どちらがそうしようと言ったわけでもない。
立ったままだと、閉まった校門が近すぎた。
歩き出すと、校門は背中の後ろへ下がっていく。
下がっていくのに、消えない。
やえの横顔は、佐知の少し前にある。
いつもなら、やえはすぐ何かを撮る。
側溝の葉っぱ。
白い塀の汚れ。
道に落ちた輪ゴム。
そういうものを見つけて、何の説明もなくスマホを向ける。
でも、今は撮らない。
スマホは手にある。
画面は暗い。
佐知のスマホも、手にある。
やえの写真を開いたままではない。
暗い画面に、自分の指だけが映っている。
「来ないでよかったのに」
やえが言った。
声は小さかった。
でも、怒っていた。
大きな声より、そのほうが分かりやすいことがある。
「ごめん」
佐知は言った。
言ってから、足りないと思った。
ごめん。
それだけでは、何に対してなのか分からない。
追いかけたこと。
写真を手がかりにしたこと。
昨日の言葉。
高校生で済むから、と言ったこと。
全部に使える言葉は、全部から逃げる言葉にもなる。
やえは歩く速度を変えなかった。
「謝るなら、何に謝ってるか言ってください」
「昨日」
「昨日の何」
佐知は黙った。
言わなければいけない。
分かっている。
でも、口に出すと、あの言葉がもう一度同じ形で出てくる。
あんたはいいよね。
学校行かなくても。
まだ高校生で済むから。
言い直すだけで、また傷つけそうだった。
「学校のこと」
佐知は言った。
「あんなふうに言って、ごめん」
やえは何も返さなかった。
歩道橋の階段が見えてきた。
さっき佐知が上ってきた場所だ。
やえは階段の前で止まらず、ゆっくり上り始めた。佐知も続く。
二人の足音が、金属の階段に少しずれて響いた。
やえのほうが先。
佐知が後。
それだけの順番が、妙に大きく感じる。
歩道橋の上に出ると、風が少し強かった。
駅裏の道が下に見える。
コンビニ。
バス停。
駐輪場。
さっき写真と見比べたものが、今度は実物だけで並んでいる。
やえは手すりに背中を預けた。
校門のほうは見えにくい位置だった。
佐知は少し離れて立った。
近づきすぎると、また何かを間違えそうだった。
離れすぎると、来た意味がなくなる気がした。
その中間が分からない。
手すりの影が、二人の足元で細く切れていた。
同じ場所に立っているのに、影は少しずれている。
「何で来たんですか」
やえが聞いた。
「さっき言った」
「嫌だったから?」
「うん」
「それ、阿久津さんの都合ですよね」
「うん」
認めるしかなかった。
やえの顔が少しだけ歪んだ。
怒っているのか、笑いかけたのをやめたのか、分からない。
「じゃあ、私の都合は」
「聞きたい」
「聞くタイミング、今ですか」
佐知は返せなかった。
今ではない気もする。
今しかない気もする。
いつもそうだった。
聞かないほうがいいと思って、聞かなかった。
聞くと失敗すると思って、黙った。
その間に、やえは屋上に来なくなった。
佐知は手すりの塗装が剥げたところを見た。
緑の下から、銀色の金属が出ている。
「心配」
佐知は言った。
言った瞬間、自分で嫌になった。
それでも、口は続けた。
「心配しただけ」
だけ。
その言葉が出た瞬間、母のLINEを思い出した。
返事だけでもして。
だけ、で済むものはだいたい済まない。
やえの表情も、そこで固まった。
「だけ」
やえは繰り返した。
「ごめん」
「また」
「今のは」
「何に謝ってるんですか」
佐知は黙った。
また同じところに戻った。
謝ればいいわけではない。
心配すればいいわけでもない。
追いかければいいわけでもない。
何をしても、自分のほうの都合が先に見える。
佐知はスマホを握った。
やえの写真を手がかりにして来た。
その写真は、佐知を動かした。
でも、やえは来てほしいと言っていない。
「言い方、違った」
佐知はやっと言った。
「違ったというか」
「違ったんですか」
やえの声は平らだった。
「心配しただけって、言えば、自分が悪くないみたいになる」
言ってから、佐知は息を止めた。
少しだけ、正しいことを言えた気がした。
でも、それも自分の整理に聞こえた。
やえは手すりの向こうを見た。
駅裏の道を、自転車が一台通った。
ブレーキが短く鳴る。
「阿久津さんって」
やえは言った。
「自分で嫌になるの、早いですよね」
佐知は返事をしなかった。
その通りだった。
早く嫌になれば、そこで止まれる気がする。
自分を嫌になっておけば、相手に怒られる前に少し安全な場所へ行ける。
それも、たぶん逃げ方だった。
心配した、と言った瞬間だけ、佐知の立つ場所が少し高くなる。
その高い場所からなら、昨日のひどい言葉からも、やえの「今日はいいです」からも、少し離れられる。
佐知はその顔を使いかけた。
使いかけたことまで、やえには見えていたのかもしれない。
やえはスマホを手すりの上に置きかけて、やめた。
落ちると思ったのかもしれない。
結局、手の中に戻した。
「来ないでよかったのに」
やえはもう一度言った。
さっきより小さかった。
佐知はその言葉に、今度はすぐ謝らなかった。
謝る代わりに、やえを見た。
目をそらすと、また楽なほうへ行きそうだった。
やえは佐知を見返さなかった。
でも、スマホをしまいもしなかった。
二人は歩道橋の上で、同じ方向ではない場所を見ながら並んでいた。




