第072話 コナイノコ・四
歩道橋は、写真より古く見えた。
やえの写真では白く飛んでいた階段は、実際には薄い灰色だった。端に黒い汚れがたまり、踊り場の角には小さな砂が寄っている。手すりの緑は、ところどころ剥げて、下の金属が見えていた。
佐知はスマホの画面と目の前の階段を見比べた。
合っている。
合っていると思う。
やえの写真は、手がかりとしては雑すぎる。
でも、雑なままでも場所は残っていた。
佐知は階段を上った。
一段上がるたびに、鞄の中の書類が揺れる。母への返信を送っていないことも、大学の手続きも、歩いているあいだだけは少し遠くなるかと思った。
遠くならなかった。
ただ、やえのことが前に来ただけだった。
歩道橋の上は、風が通っていた。
駅の裏側が見える。
表のバスロータリーより狭く、道も少し暗い。小さなコンビニの看板。クリーニング店の緑ののぼり。バス停の屋根。自転車が二台倒れた駐輪場。
やえの写真にあったものが、少しずつ目の前にそろう。
佐知は手すりに近づいた。
下を見ても、やえはいなかった。
コンビニの前にもいない。
バス停にもいない。
歩道橋の反対側へ降りる階段にもいない。
佐知は息を吐いた。
探すと言ったわけではない。
誰にも言っていない。
でも、ここまで来ていなければ、ただの散歩になる。
ただの散歩にするには、スマホの画面を見すぎている。
佐知は次の写真を開いた。
白い壁。
黒い金網の影。
校門のような縦の線。
拡大すると、やはり荒い。
それでも、歩道橋の上から見ると、似た場所があった。
橋の向こう、少し曲がった道の先。
白い塀。
黒い門。
その奥に、木の影。
学校だった。
校名は遠くて読めない。
佐知は一瞬、足を止めた。
学校。
やえが撮らないもの。
やえが行くタイミングを逃したと言った場所。
心配されるほど戻りづらくなると言った場所。
あるって知ってるから、撮らないと言ったもの。
佐知はその方向へ歩き出した。
歩道橋を降りる。
階段の途中で、小学生くらいの子どもが二人、反対側から駆け上がってきた。佐知は端へ寄る。子どもたちは笑いながら通り過ぎた。
学校という言葉は、年齢によって重さが違う。
昨日、自分はその重さを雑に使った。
高校生で済むから。
済む、という音だけが残って、やっぱりひどかった。
白い塀の道へ入ると、車の音が少し遠くなった。
門は閉まっていた。
黒い縦線の向こうに、校庭らしい広い空間が見える。砂の色。遠くの体育館。窓の反射。植え込みの緑。
授業の時間なのか、放課後なのか分からない。
人の声は聞こえない。
閉まった校門は、何も言わずに閉まっている。
佐知は門の前までは行かなかった。
道の反対側で立ち止まる。
行く用事がない。
探している人がいるかもしれないだけだ。
それだけで門の前に立つのは、少し怖かった。
佐知はスマホを見た。
やえにもう一度送るか。
今どこ。
近くにいる。
来た。
どれも、送るとさらに変になる。
佐知は何も打たなかった。
その時、校門とは反対側の細い道から、足音がした。
佐知は顔を上げた。
やえがいた。
制服ではなかった。
白いTシャツに、昨日と同じ薄い青のシャツ。肩から斜めに小さなバッグをかけている。スマホは手に持っているが、カメラは開いていないようだった。
やえも佐知に気づいた。
一瞬、足を止めた。
それから、いつもの顔を作ろうとした。
少し眠そうで、少し人をからかう顔。
でも、昨日と同じで、戻りきらなかった。
「ストーカーですか」
やえは言った。
笑った。
笑ったというより、笑う形にした。
佐知は返す言葉を探した。
違う。
いや。
たまたま。
どれも違った。
写真を見て来た、と言えば、もっと変かもしれない。
でも、嘘をつくには、ここは遠すぎた。
「写真」
佐知は言った。
声が少しかすれた。
「前に送ってきたやつ、見た」
やえの視線が、佐知のスマホに落ちた。
「怖」
「怖いよね」
「認めるんですか」
「認める」
やえは少しだけ黙った。
風が白い塀に沿って通る。校門の奥で、木の葉が小さく揺れた。
やえは校門のほうを見なかった。
見ないようにしているのが分かった。
白い塀も、黒い門も、奥の校庭も、やえの横にある。
でも、やえの目は佐知とスマホの間にだけ落ちている。
学校は、画面に入れなくてもそこにあった。
撮らなくても、あるものはある。
前に自分が言って失敗した言葉が戻ってきた。
佐知はそれを口に出さなかった。
出したら、また同じ失敗になる。
佐知はスマホを握ったままだった。
やえを撮るためではない。
でも、やえの写真を見て、ここまで来た。
そのことは、手の中に残っている。
「今日はいいですって言ったんですけど」
やえが言った。
「うん」
「いいですって、来てくださいって意味じゃないです」
「分かってる」
「分かってて来るの、もっと怖いですよ」
「そう」
佐知はうなずいた。
やえが少し眉を寄せる。
佐知は、昨日からずっと口の中にあった言葉を探した。
ごめん。
言いすぎた。
学校のこと、あんなふうに言って。
それを言うべきだった。
言うべきだと分かっている。
でも、最初に出たのは別の言葉だった。
「来ないままでいるのが、嫌だった」
言ってから、佐知は息を止めた。
それは謝罪ではない。
言い訳でもない。
ただ、自分のわがままだった。
昨日のことを先に言うべきだと分かっていた。
やえは笑わなかった。
怒りもしなかった。
「嫌って」
やえは小さく言った。
「阿久津さんが?」
「うん」
「私じゃなくて」
「うん」
佐知はうなずいた。
そこは間違えたくなかった。
心配したから。
そう言うのは簡単だった。
でも、その言葉はたぶん次の場所で嫌な形になる。
来ないでよかったのに、と言われたら、佐知はまた自分を守る言葉を出してしまう。
だから、今はまだ言わなかった。
やえはスマホを持つ手を少し下げた。
カメラは開かない。
佐知もカメラを開かなかった。
二人とも、撮らないまま立っている。
それでも、佐知は見ていた。
校門の近くの道で、二人の間に少しだけ距離が残る。
その距離を詰めるには、まだ言葉が足りない。
足りないまま、佐知はやえを見ていた。
見ないふりは、できなかった。




