第071話 コナイノコ・三
伏せたスマホは、ただの黒い板になった。
それでも、佐知には文字が見えていた。
今日はいいです
短い。
短いのに、置き場所がない。
カウンターの上にも、赤いテープの箱にも、鞄の底にも入らない。
佐知はグラスの水を飲みきった。
ぬるい水だった。
喉を通る感触だけが残る。
ハルエは何も聞かなかった。
佐知がスマホを伏せたことも、返事が来たことも、たぶん分かっている。
分かっていて、布を畳んでいる。
その横で、ガラス戸が開いた。
鈴が鳴る。
ちり、と短く。
弓削が入ってきた。
肩にケーブルの束をかけ、片手に紙袋を持っている。
「暑いっす」
第一声がそれだった。
「夏だからね」
ハルエが言う。
「夏、もうちょい遠慮してほしいっすね」
「頼んでみたら」
「どこに」
弓削は紙袋をカウンターに置いた。
中には、安い紙コップが入っている。
「貝塚さん、上っすか」
その名前が出て、佐知の手が少し動いた。
弓削は気づいたようで、佐知を見た。
「違う感じっすね」
「違う感じって何ですか」
「上にいない感じ」
「いません」
「あー」
弓削はケーブルを床に下ろした。
どさ、と音がする。
黒い束が昨日と同じように広がった。
「待ってたんすか」
「待ってないです」
佐知はすぐに答えた。
早すぎた。
弓削は「あ」と言って、少し笑った。
「早い否定、だいたい待ってますよ」
「待ってないです」
「二回目」
「数えないでください」
「数えやすかったんで」
ハルエが布を畳みながら言った。
「待つのやめるなら、見に行けばいいんじゃない」
佐知は顔を上げた。
言ったのはハルエかと思った。
でも、弓削が先に手を上げた。
「俺っす。俺が言おうとしました」
「どっちでもいい」
ハルエは淡々と返した。
弓削は佐知のほうを見た。
「待つのやめるなら、見に行けばいいんじゃないすか」
今度は、はっきり言った。
佐知はすぐには返せなかった。
見に行く。
その言葉は変だった。
約束もしていない相手を、わざわざ見に行く。
佐知がそういう立場なのかも分からない。
そもそも、どこへ行けばいいのか分からない。
「場所、知らないです」
「知らないんすか」
「知らないです」
「じゃあ待つしかないっすね」
弓削はあっさり言った。
あっさり言われると、佐知の中で何かが少しだけ動いた。
待つしかない。
本当にそうか。
佐知は伏せたスマホを見た。
画面の下に、やえの写真がある。
今まで、下手だと思って見ていた写真。
暗い。
ブレている。
切れている。
ピントがずれている。
でも、昨日のアイスは昨日のアイスだった。
屋上は屋上だった。
鈴は鈴だった。
佐知はスマホを表に返した。
やえの返事がまだ表示されている。
今日はいいです
佐知はその上の写真を開いた。
最初に出てきたのは、屋上の排水口だった。
違う。
次。
コンビニの前の傘。
違う。
次。
駅前のポール。
次。
自販機の取り出し口。
次。
歩道橋の階段。
佐知の指が止まった。
写真はひどかった。
手すりが斜めに入り、階段の半分は白く飛んでいる。端にやえの指が写っている。奥に、青い看板の端だけが見えた。
それでも、どこの歩道橋か分かった。
駅の裏へ抜ける道にある歩道橋だ。
佐知は前に一度だけ通ったことがある。大学へ向かうバスを避けて、遠回りした時。橋の下に小さな駐輪場があって、いつも何台か倒れている。
やえは、そこを撮っていた。
いつ撮ったのかは分からない。
佐知は写真を戻した。
次。
バス停の時刻表。
数字はほとんど読めない。ブレている。ガラスに空が映り込んで、白い反射が邪魔をしている。でも、バス停の名前の最後だけが写っていた。
北町。
駅裏から少し歩いたところにある停留所だ。
次。
コンビニの看板。
いつもの駅前店ではない。
看板の下に、クリーニング店の緑ののぼりが半分だけ写っている。佐知はそれを見たことがあった。駅裏の細い道にある店だ。
次。
白い壁。
何の写真か分からない。
下のほうに、黒い金網の影が入っている。
その奥に、校門のような縦の線が少しだけ見えた。
佐知は画面を拡大した。
画質は荒くなった。
分からない。
分からないが、学校の写真ではないと言い切るには、少しだけ何かが写っていた。
学校を撮らないやえのスマホに、学校そのものではない端だけが入っている。
避けたつもりで、端が入ったのか。
端だけなら大丈夫だったのか。
佐知には分からない。
でも、そこに向かえば、やえが通った道の近くには行ける。
「阿久津さん」
弓削が呼んだ。
佐知は顔を上げた。
「何すか、その顔」
「どんな顔ですか」
「待つのやめる顔」
佐知はスマホを握った。
「探すって言うと、変ですよね」
「変っすね」
弓削は即答した。
「でも、待ってるよりは変じゃない時もあるっす」
ハルエが布を畳む手を止めずに言った。
「行くなら、水飲んでから行きな」
「さっき飲みました」
「足りない顔」
また顔だ。
佐知は言い返さなかった。
ハルエが新しいグラスに水を入れた。
佐知はそれを飲んだ。
今度も、ぬるかった。
それで十分だった。
佐知は鞄を持った。
折れた書類が中で動く。
今日はそれを置いていく気にはなれなかった。
何も決められないまま、持ったまま行く。
それが今の自分の形だった。
丸藤第六ビルを出る。
外はまだ暑い。
佐知はスマホを片手に、駅裏へ向かった。
写真を撮るためではない。
やえが撮ったものを見るために、歩く。
歩道橋の写真を開く。
手すりの色。
階段の向き。
青い看板の端。
それだけを頼りに曲がる。
コンビニの看板。
緑ののぼり。
バス停の時刻表。
北町。
ブレた写真ばかりが、道の端を少しずつ指している。
佐知はその端を拾うように歩いた。
やえの写真は、相変わらず下手だった。
下手なのに、歩けた。




