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第070話 コナイノコ・二

二十分経っていた。


佐知はその数字を見て、すぐに画面を暗くした。


見なければ、十分くらいの気分でいられた。


見てしまうと、二十分は二十分になる。


約束もしていない相手を二十分待つのは、待っていると言っていい。


佐知はプラ椅子から立った。


立つと、膝の上に置いていた鞄が少しずれて、書類の角が内側で当たった。昨日撮れなかった紙。今日も撮るつもりはない。


やえが来ないから、降りるわけではない。


屋上に用事がなくなっただけだ。


佐知はそう言い直してから、階段へ向かった。


一階の喫茶ポニー跡には、ハルエがいた。


昨日より店内は片づいている。


カウンターの上にはカップが伏せてあり、紙ナプキンは四角い箱に入っていた。黄色いテープの箱と茶色いテープの箱は壁際に並んでいる。赤いテープの箱はカウンターの足元に残っていた。


未定の箱。


欠けた皿。


古いメニュー立て。


昨日の言葉。


佐知はガラス戸を開けた。


鈴が鳴る。


ちり、と短く。


ハルエはカウンターの内側で、布を洗っていた。


「いたの」


「いました」


「上?」


「はい」


「暑いのに」


「暑かったです」


会話はそこまでで足りた。


足りたのに、佐知は入口の近くから動かなかった。


ハルエは布を絞って、シンクの端にかけた。


「何」


「何がですか」


「何か聞く顔」


佐知は顔をそらした。


顔は喋る。


やえに何度も言われた言葉が戻ってくる。


「別に」


「別にの顔じゃないね」


ハルエは棚から古いグラスを一つ出した。


「水?」


「大丈夫です」


「大丈夫じゃない人、だいたいそう言うね」


「弓削さんみたいなこと言いますね」


「あいつが私みたいなこと言ってるんでしょ」


ハルエはグラスに水を入れた。


そして、佐知の返事を待たずにカウンターの上へ置いた。


佐知はカウンターへ近づいた。


グラスの表面に、水滴がすぐにつく。


それを見ていると、聞くタイミングが少し遠ざかった。


「今日」


佐知は言った。


声が小さかった。


「貝塚さん来てました?」


言ってから、名字で呼んだことに自分で気づいた。


やえ。


いつも頭の中ではそう呼んでいる。


でも、口に出すと少し近すぎる気がした。


ハルエは驚かなかった。


「来てないね」


「そうですか」


「うん」


それだけだった。


ハルエは、何かあったの、と聞かなかった。


昨日の店内の空気を見ていれば、何かあったことくらい分かるはずだった。


分かっていて聞かない。


その雑さは、ありがたい時と、逃げ道を減らす時がある。


今日は両方だった。


佐知は水を飲んだ。


冷たくはない。


でも、屋上の風で乾いた喉にはちょうどよかった。


「来るって言ってたの」


ハルエが聞いた。


「言ってないです」


「じゃあ、来ない日もあるでしょ」


「ありますね」


「あるね」


会話はそこで終わってもよかった。


でも、佐知はグラスを置いたまま、まだ立っていた。


ハルエは赤いテープの箱を少し足で寄せた。


「聞きたいなら本人に聞けば」


「本人に」


「貝塚さん、たぶんスマホ持ってるでしょ。いつも撮ってるんだから」


「持ってますけど」


「なら、聞ける」


「聞けるのと、聞くのは違います」


言ってから、前にハルエが似たようなことを言っていたのを思い出した。


使えるのと、使うのは違う。


佐知は少し嫌な顔をした。


自分で言ったのに、自分に返ってきた。


ハルエは笑わなかった。


「違うけど、似てる」


「雑ですね」


「だいたい似てれば使える」


佐知はスマホを出した。


やえとのトーク画面は、すぐには開かなかった。


アプリを開き、一覧を見る。


母の名前がある。


既読のまま、返していない画面。


佐知はそこを見ないようにして、やえの名前を探した。


貝塚やえ。


前に送られてきた写真のサムネイルが、小さく表示されている。


ブレた屋上。


暗い鈴。


斜めの給水塔。


そのどれもが、急に使い道を持ちそうで嫌だった。


佐知は画面を開いた。


入力欄に触れる。


カーソルが点滅した。


昨日の母への画面と同じ点滅。


同じなのに、全然違う。


ごめん。


そう打つべきだと思った。


昨日は言いすぎた。


それも打てる。


でも、最初にそれを送ると、返事を求めているみたいになる。


許して。


大丈夫って言って。


そういう形に見える。


ごめん、と打てなかった。


佐知は少し考えて、短く打った。


今日来ないの


疑問符はつけなかった。


つけると、責めているみたいにも、待っているみたいにもなる。


つけなくても、十分そう見える気はした。


佐知は送信ボタンを押した。


送れた。


母への文字は送れなかったのに、やえへの文字は送れた。


その差に、佐知は少し嫌になった。


既読はつかない。


ハルエはカウンターの中で、別の布を畳み始めていた。


「送った?」


「送りました」


「えらい」


「えらくないです」


「じゃあ普通」


「普通でもないです」


「難しいね」


ハルエは本当に難しそうには言わなかった。


佐知はスマホを伏せようとして、やめた。


伏せると、通知が来た時に分からない。


分からないほうがいい気もする。


でも、分からないのは嫌だった。


佐知は画面を上にしたまま、カウンターに置いた。


水滴の近くに置いたせいで、ハルエが「濡れるよ」と言った。


佐知は少し横へずらした。


その時、画面が光った。


既読。


それから、すぐに吹き出しが出た。


今日はいいです


それだけだった。


佐知は文字を見た。


今日はいいです。


何がいいのか、分からない。


来ないのがいい。


会わないのがいい。


聞かないのがいい。


全部に読めた。


佐知は返事を打とうとして、入力欄に触れた。


何を、と打ちかける。


消した。


ごめん、と打ちかける。


それも消した。


画面には、やえの短い返事だけが残った。


佐知はスマホをカウンターの上で裏返した。


今度は、伏せた。

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