第069話 コナイノコ・一
翌日、佐知はいつもより遅く家を出た。
遅くしたつもりはなかった。
ただ、鞄の前で少し止まり、スマホの前で少し止まり、玄関の靴の前で少し止まった。その少しが重なって、駅前の光はもう昼に近かった。
机の上には、大学の書類が何枚か残っている。
鞄の中にも、折れた書類が入っている。
どちらにもある。
分けた意味は、あまりない。
母へのLINEは、昨日のままだった。
一人で決めなくていいからね。返事だけでもして
既読の印。
空の入力欄。
佐知は出る前に一度だけ画面を開き、何も打たずに閉じた。
閉じるのは早くなった。
早くなっても、返していないことは変わらない。
丸藤第六ビルへ向かう道で、佐知は何度もスマホを見そうになった。
母の画面ではない。
やえとの画面。
前に送られてきたブレた写真が並ぶ場所。
そこを開けば、何かがあるような気がした。
でも、開く理由がなかった。
昨日、言いすぎた。
謝れていない。
それだけで十分なのに、画面を開くと、何かしなければならなくなる。
佐知はスマホを鞄の外ポケットに入れた。
手を離す。
すぐに、手が寂しくなった。
丸藤第六ビルの入口は、いつも通り古かった。
郵便受けの横に、また小さな紙くずが落ちている。解体告知の端は、前より少し浮いている気がした。気がしただけかもしれない。
喫茶ポニー跡のガラス戸は、半分開いていた。
中から、ハルエの声も弓削の声も聞こえない。
佐知は一階の前で立ち止まった。
昨日、ここから出た。
やえはコードを巻く手を止めなかった。
佐知は「帰ります」と言った。
それだけだった。
今日、最初に顔を合わせたら、何を言うのか。
ごめん。
昨日は言いすぎた。
あれは違う。
どれも、口の中で練習すると薄くなる。
薄くなるくせに、実際に言う時には重すぎる。
佐知は一階に入らず、階段へ向かった。
屋上にいるかもしれない。
そう思った。
思ったあとで、違うと自分に言った。
待っているわけではない。
ただ、上を見に行くだけだ。
屋上は、丸藤第六ビルの一部だ。
見に行く理由ならある。
階段を上る。
二階の踊り場は少し暗い。
三階へ向かう途中、壁に貼られた古い防火ポスターの角が浮いていた。昨日は見ていない。見ていないから、昨日から浮いていたのか、今日浮いたのか分からない。
そういうものは、見れば見るほど分からない。
屋上の扉は閉まっていた。
鍵はかかっていない。
佐知は扉を押した。
風が先に入ってくる。
屋上は明るかった。
給水塔とフェンスと、排水口の近くの細い草。
昨日と同じようなものが、同じようにそこにある。
やえはいなかった。
佐知は扉の前で止まった。
いない。
それだけだった。
鞄がない。
制服の白い襟もない。
薄い青のシャツもない。
床にしゃがんで何かを撮っている背中もない。
いない、ということは思ったより物が多かった。
いつもやえがいる時、佐知はそのうるささに先に反応していた。
言い方や笑い方や、すぐに変なものへスマホを向ける動き。
それがあるせいで、屋上の床や風は少し後ろに下がっていた。
今日は逆だった。
給水塔の脚の錆や、フェンスに絡まったビニールひもが、やえの代わりに前へ出てくる。
それが嫌だった。
やえがいない場所を、やえが撮りそうなものばかりで数えている。
佐知は屋上へ出た。
扉が後ろで少し戻り、金属の音を立てた。
いつもなら、その音にやえが何か言う。
遅いです。
また来たんですか。
今日、何の顔ですか。
どれも聞こえなかった。
佐知はプラ椅子を見た。
座らなかった。
座ると、待っているみたいになる。
待っているわけではない。
佐知はフェンスの近くへ行った。
駅前が見える。
バスが止まり、人が降りる。
コンビニの自動ドアが開き、すぐ閉じる。
遠くで自転車のブレーキが鳴った。
屋上の床には、昨日のものではない小さな葉が落ちている。
やえなら撮るかもしれない。
そう思ってしまって、佐知は顔をしかめた。
何でも、やえなら、に変わるのが嫌だった。
佐知はスマホを出した。
時間を見る。
来ると約束した時間はない。
だから、遅いも早いもない。
約束がないのに、時間を見るのは変だ。
変だと分かっていても、画面の数字を見た。
まだ十分も経っていない。
佐知はスマホをしまった。
屋上を一周する。
いつもやえがしゃがんでいそうな場所を、見るつもりはない顔で見る。
いない。
どこにもいない。
プラ椅子の脚に、白い糸くずが絡まっていた。
佐知はそれを見た。
やえなら撮る。
また思った。
佐知はしゃがみかけて、やめた。
撮るわけではない。
拾うわけでもない。
ただ見ただけ。
ただ見ただけのものが、今日はいちいちやえの不在を指す。
佐知はプラ椅子の背に手を置いた。
座らない。
座ったら待っているみたいになる。
立っていても、十分待っているような気はした。
「待ってない」
佐知は小さく言った。
声は風に混ざって、すぐ消えた。
誰も聞いていない。
聞いていないから、言い訳にもならない。
佐知はスマホをもう一度見た。
通知はない。
母からも。
やえからも。
やえに何も送っていないのだから、返事がないのは当たり前だった。
当たり前なのに、画面が空だと少し腹が立つ。
腹が立つ相手は、やえではない。
たぶん、自分でもない。
それでも、誰かに向けたい形のものだけが残る。
佐知はトーク画面を開きかけた。
やえの名前を押せば、前に送られてきた写真が出る。
暗い鈴。
斜めの給水塔。
佐知の靴。
ブレたアイス。
どれも、やえがいない今見るには少し近すぎた。
佐知はアプリを閉じた。
閉じると、屋上だけが残る。
屋上だけが残ると、やえがいないことがさらに残る。
どちらにしても同じだった。
佐知はプラ椅子に座った。
座ってしまった。
膝の上に鞄を置く。
中で、折れた書類が少し動いた。
屋上の風は、昨日より強くなかった。
待つつもりはない。
そう思いながら、佐知はもう一度、時間を見た。




