第068話 チャントノト・四
やえは、何も言わなかった。
言わないまま、赤いテープの箱の横を通って、弓削のほうへ行った。
弓削が持っていたコードの端を受け取る。
「こっちですか」
「あ、うん。そっちっす」
弓削の返事は少し遅れた。
やえはコードを引いた。
いつもなら何か言うところだった。
絡まってます。
また弱い準備ですか。
これ、自分で動いてくれないんですか。
そういう雑な言葉が出てきそうな場面で、やえは何も言わなかった。
その沈黙が、佐知の言葉の形をはっきりさせる。
あんたはいいよね。
学校行かなくても。
まだ高校生で済むから。
佐知は、自分で言った言葉を頭の中で聞き直した。
ひどい。
ひどいと分かる。
分かるのに、消えない。
「阿久津さん」
ハルエが言った。
佐知は顔を上げた。
ハルエは怒っている顔ではなかった。
呆れているようにも見えない。
ただ、手に持った小皿を赤い箱へ入れるかどうか迷っている顔だった。
「これ、どう思う」
「え」
「欠けてるけど、皿」
佐知は皿を見た。
縁が少し欠けている。
白い皿。
青い線。
使えなくはなさそうで、使わないほうがよさそうな皿。
「分かりません」
佐知が言うと、ハルエは「だよね」と言った。
そして、その皿を赤いテープの箱に入れた。
こと、と軽い音がした。
「分からないやつに入れとく」
ハルエは言った。
「それでいいんですか」
「今日決めるやつと、今日決めないやつがあるでしょ」
佐知は返事をしなかった。
やえはコードを巻いている。
こちらを見ない。
見ていないのに、そこにいる。
それが余計に苦しかった。
ハルエはカウンターの上の紙ナプキンをそろえながら、続けた。
「決まらないなら、決まってないって言えばいいんじゃない」
雑だった。
本当に雑な言い方だった。
深く考えてから渡された言葉ではない。
皿を赤い箱へ入れるくらいの手つきで、ぽんと置かれた言葉だった。
佐知は少し笑いそうになった。
笑えなかった。
「言えたら、そうしてます」
佐知は言った。
「まあね」
ハルエはあっさり返した。
「言えないから困ってるんですよ」
「うん」
「うんって」
「言えないんだなって聞いた」
ハルエは紙ナプキンの角を指で押さえた。
「それも、決まってないの中に入れとけば」
佐知は赤い箱を見た。
欠けた皿。
古いメニュー立て。
金具。
どれも、箱の中で静かに重なっている。
佐知の言葉は、そこには入らない。
やえに言ったことも。
母に返していないことも。
大学のメールを読んだことも。
赤いテープを貼っても、手元から消えるわけではない。
それでも、ハルエの雑さは少しだけ息を入れる隙間を作った。
佐知はやえのほうを見た。
「さっきの」
言いかけたところで、やえがコードを弓削に渡した。
「これ、こっちで合ってます?」
「合ってるっす」
弓削が答える。
やえは佐知を見なかった。
佐知も続けられなかった。
さっきの。
その先は、いくつもある。
ごめん。
違う。
言い過ぎた。
どれも正しいようで、足りない。
足りない言葉を出して、さらに悪くするのが怖かった。
怖いという理由で黙るのは、たぶん楽だった。
佐知は鞄の紐を肩にかけ直した。
「帰ります」
言ってから、店に来た理由も、帰る理由も薄いと思った。
ハルエは「うん」とだけ言った。
弓削は軽く頭を下げた。
やえは、コードを巻く手を止めなかった。
佐知はガラス戸を開けた。
鈴が鳴る。
ちり、と短く。
喫茶ポニー跡は一階だから、外へ出るのに階段はない。
それなのに、佐知は足元が一段低くなったような気がした。
ガラス戸の取っ手には、誰かの手の跡がうっすらついていた。佐知はそこを見ないようにして外へ出た。背中のほうで、店の音が少しだけ細くなり、鈴の揺れもすぐ止まった。
駅前の空気は、夕方になっても暑かった。
歩いているうちに、鞄の中の書類が肩に当たる。
紙は軽い。
軽いのに、歩くたびにそこにある。
佐知は駅へ向かう道の途中で立ち止まった。
小さな植え込みの横に、誰かが座れない幅の低い縁石がある。
そこに鞄を置いた。
ファスナーを開ける。
青いクリアファイルを取り出す。
中の書類は、端が折れていた。
折れた線に沿って、紙が少し白く毛羽立っている。
佐知はその書類を膝の上に置いた。
大学名。
休学。
期間。
手続き。
文字はいつも通り、佐知を待たずに並んでいる。
スマホを出した。
カメラを開く。
画面に、折れた書類が映った。
膝の上の暗い布。
白い紙。
夕方の影。
ファイルの青。
情けない。
ちゃんと情けない。
書類の端は、画面の中だと実物より白く見えた。折れた線の毛羽立ちは写っているのに、指で触った時のざらつきはない。ファイルの青だけが、夕方の影の中で妙に強かった。
今の自分に近い。
シャッターボタンは、すぐ下にある。
押せば音が鳴る。
そう思った。
思っただけだった。
指は、シャッターボタンの少し手前で止まる。
白い紙は、画面の中でただ白い。
でも、佐知には紙だけに見えなかった。
母のLINE。
大学の窓口。
やえのまばたき。
済むので、という声。
全部が紙の上に重なって、画面が狭くなる。
佐知はカメラを閉じた。
書類を撮らなかった。
撮らなかったことにも、もう慣れたくなかった。
佐知は書類をクリアファイルに戻した。
端をきれいにそろえようとして、折れた角が余計に目立った。
スマホの画面を開く。
LINE。
母との画面。
昨日の文字の下に、既読がついたままになっている。
入力欄に触れると、キーボードが出た。
佐知は打った。
まだ決めてない
文字はすぐに並んだ。
短い。
それだけのことを、昨日から送れないでいる。
佐知は送信ボタンを見た。
押せば届く。
届いたら、母は読む。
その先に何が返ってくるのか、今は考えたくなかった。
佐知は文字を消した。
入力欄は空になった。
送らない。
画面には、母の文字と、既読の印と、空の入力欄だけが残った。
キーボードが消えると、画面の下が急に広くなった。広くなった空白に、何も入らない。佐知はそこをしばらく見てから、ようやく画面を閉じた。
佐知はスマホを暗くした。
書類は鞄の底に戻した。
折れた角は、戻しても折れたままだった。




