第067話 チャントノト・三
黄色いテープは、残す箱に貼られることになった。
茶色いテープは、捨てる箱。
赤いテープは、まだ決まっていないもの。
「赤、便利すぎません?」
弓削が言った。
「便利な色は必要でしょ」
ハルエは箱の側面に赤いテープを貼った。
赤い四角が、段ボールの茶色の上で妙にはっきりしている。
「まだ決まっていないもの」。
そう書かれていないのに、そう見える。
佐知はその箱を見ていた。
中には、古いメニュー立てが二つと、欠けた小皿と、どこに使うのか分からない金具が入っている。どれも捨ててよさそうで、捨てなくてもよさそうだった。
そういうものは、見ていて疲れる。
捨てる箱なら、目をそらせる。
残す箱なら、理由をつけられる。
赤い箱だけが、理由を待っている。
佐知の鞄の中の書類も、たぶん赤い箱の中身に近い。
戻るのか。
続けて休むのか。
やめるのか。
どれでもないまま、鞄の底にいる。
「阿久津さん」
やえが呼んだ。
佐知は顔を上げた。
やえはスマホを手に持っている。画面はカメラではなく、さっき撮ったテープの写真になっていた。黄色、茶色、赤。ピントは少しずれている。
「何」
「今日、大学の顔してますね」
店内の音が、少し遅れた。
スピーカーから流れていた細い音。
弓削がコードを巻く音。
ハルエが箱を動かす音。
どれも続いているのに、佐知の耳には一度だけ遠くなった。
「何それ」
「前にも言ったやつです」
「覚えてなくていい」
「忘れるの下手なので」
やえは悪びれなかった。
その顔が、佐知の中の変な場所を押した。
昨日の母のLINE。
既読の印。
大学のメール。
満了。
手続き。
希望。
そこへ、やえの声が乗る。
大学の顔。
「高校生に言われたくない」
佐知は言った。
言ってから、また同じ道に足を置いたことに気づいた。
胃のあたりが先に沈んだ。
前にも言った。
屋上で、白い紙の角を見られた時。
高校生には分からないでしょ。
やえはあの時、「高校生なので」と返した。
佐知はそれを覚えている。
覚えているのに、また似た言葉を使った。
やえは少しだけ目を細めた。
「高校生、便利ですね」
「便利なのはそっちでしょ」
「私が?」
「そう」
「何がですか」
佐知は答えなかった。
答えたら、言い過ぎる気がした。
でも、黙っていると、頭の中で言葉が勝手に並ぶ。
学校へ行っていないくせに。
通知を伏せるくせに。
家も学校も撮らないくせに。
それなのに、佐知の大学の顔だけは見る。
「阿久津さん、今の顔、もっと大学です」
やえが言った。
軽く言ったのかもしれない。
でも、佐知には軽く聞こえなかった。
「やめて」
「何をですか」
「その、分かったみたいな言い方」
「分かってないです」
「じゃあ言わないで」
「分かってないから聞いてるんですけど」
「聞いてない。ただ刺してるだけ」
やえはスマホを下ろした。
その時、やえのスマホが震えた。
短く二回。
画面は佐知のほうを向いていない。
それでも、やえが反射で親指を動かしたのは見えた。ロック画面を一瞬だけ見て、すぐ伏せる。伏せる動きは、前にも見た。
学校連絡の通知が来た時と同じだった。
やえは何でもない顔を作った。
うまく作れているように見えた。
でも、作ったこと自体は見えてしまった。
佐知は、その顔を見ないでいればよかった。
見てしまった。
見たあとで、何も言わない顔をすればよかった。
それができなかった。
やえが先に言った。
「そういう言い方するからじゃないですか」
佐知は言葉を失った。
やえの声は大きくない。
怒鳴ってもいない。
でも、逃げる隙間がなかった。
「貝塚さん」
弓削が少し困った声を出した。
「コード、こっち持ってもらっていいっすか」
たぶん、話をずらそうとした。
やえはすぐには動かなかった。
ハルエも、箱の前で手を止めている。
佐知はそれが嫌だった。
気を遣われている。
大人に。
弓削に。
ハルエに。
やえにまで。
何もできていない自分が、店の真ん中に置かれているみたいだった。
赤いテープの箱より、ずっと邪魔だ。
「あんたこそ」
佐知は言った。
やえが佐知を見る。
「何ですか」
「学校の顔、してるよ」
やえの表情が少し止まった。
止まったのを見て、佐知はやめればよかった。
やめればよかったのに、そこで止まれなかった。
「学校のこと、見ない顔」
声が落ちた。
店内の空気も落ちた。
弓削がコードを持つ手を止める。
ハルエは何も言わない。
やえだけが、表情を戻そうとした。
いつもの、少し眠そうで、少し人をからかう顔へ。
でも、戻りきらなかった。
「それ、阿久津さんが言います?」
やえは言った。
静かだった。
佐知の胸の中で、何かがさらに熱くなる。
言われたくないことを言われる前に、もっと強いものを投げる。
それが最悪だと分かっていた。
分かっているのに、口は止まらなかった。
「あんたはいいよね。学校行かなくても、まだ高校生で済むから」
言葉が出たあと、佐知はすぐに後悔した。
後悔は、早かった。
早いくせに、間に合わない。
やえはスマホを握ったまま、まばたきをした。
一度だけ。
それから、画面を見た。
カメラは開いていない。
テープの写真も、もう暗くなっていた。
「そうですね」
やえは言った。
「済むので」
その声に、いつもの軽さはほとんどなかった。
佐知は何か言おうとした。
違う。
今のは違う。
ごめん。
どれも、出す前から薄かった。
やえはスマホをポケットに入れた。
撮らない、という動きだった。
でも、撮られなかったことにほっとできる空気ではなかった。
赤いテープの箱が、佐知の足元の少し先にある。
まだ決まっていないもの。
その中に、今の言葉を入れられたらいいのにと思った。
入れたところで、箱はそこに残る。
佐知は何も持っていない手を、どうしていいか分からなかった。




