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第066話 チャントノト・二

朝になっても、母のLINEはそこにあった。


一人で決めなくていいからね。返事だけでもして


文字は昨日と同じ形で、画面の中に収まっている。


寝て起きたら別の意味になっているかと思ったが、そんなことはなかった。


佐知は布団の上で横になったまま、スマホを持っていた。


部屋のカーテンの隙間から、細い光が入っている。机の上の書類にだけ、その光が当たって白くなっていた。


返事だけ。


それだけなら、できる。


行けてない。


まだ決めてない。


ごめん。


どれかを打って、送ればいい。


送れば、少なくとも通知は一つ減る。


母も少しは安心する。


たぶん。


分かっていることばかりが、手を重くする。


佐知はLINEを開いた。


母との画面が出る。


昨日の文字の下に、既読の小さな印がついた。


ついた瞬間、佐知は息を止めた。


読んだ。


それだけが向こうへ伝わる。


読んで、返さない。


未読のまま隠していた時より、少しだけひどい気がした。


入力欄は空だった。


カーソルが点滅している。


細い縦線が、早くしろと言っているように見えた。


佐知は一文字も打たなかった。


画面を閉じる。


閉じても、既読は消えない。


母のスマホの中では、もう読んだことになっている。


佐知は布団から起きた。


机の上の書類を見た。


大学からのメールを印刷したものではない。前からある休学延長の書類と、封筒と、案内のコピー。どれも出番を待っているというより、出番が来ないまま古くなっている。


そのうちの数枚を、佐知は青いクリアファイルに戻した。


ファイルの角が少し割れている。


鞄に入れると、底で紙が立った。


持っていく理由はない。


丸藤第六ビルに行くなら、なおさらない。


でも、置いていくと、家に残したことがはっきりしすぎる。


持っていけば、少なくとも途中のふりができる。


佐知は鞄のファスナーを閉めた。


外へ出ると、空気はもう暑かった。


駅のほうから人の流れが来る。


会社へ行く人。


学校へ行く人。


どこかへ行く顔をした人たち。


佐知はその中を、どこかへ行く顔を作れないまま歩いた。


大学へ向かう道には曲がらない。


駅の改札にも近づかない。


気づくと、丸藤第六ビルの入口に立っていた。


逃げる場所があるのは、便利だ。


便利すぎて、嫌になる。


ガラス戸の向こうで、喫茶ポニー跡の中が少し明るかった。


扉は開いている。


鈴を鳴らして入ると、店内には前より物が増えていた。


カウンターの上に、洗ったカップが並んでいる。


紙ナプキンは数枚ずつ重ねられ、角をそろえられていた。


壁際には折りたたみ椅子。


床には、昨日の黒いケーブル。


片方だけ鳴るスピーカーは、カウンターの左側に置かれている。割れた角はそのままだった。


弓削が床にしゃがんで、延長コードをまとめていた。


ハルエは古いメニュー立てを拭いている。


やえはテーブルの上に置いたマスキングテープを撮っていた。


黄色いテープ。


赤いテープ。


茶色いテープ。


どれも半端に使われて、芯の紙が少しつぶれている。


「おはようございます」


やえがスマホを下ろさずに言った。


「こんにちは」


佐知は返した。


「まだ午前です」


「知ってる」


「じゃあおはようございます」


「言い直さない」


やえはテープを撮った。


「テープ、そんなに撮るもの?」


「どれがどれか分からなくなるので」


「写真で管理するほど?」


「雑な在庫管理です」


弓削が床から顔を上げた。


「貝塚さん、茶色いやつどこ置きました?」


「撮りました」


「置き場所を聞いたんすけど」


「画面では、カウンター右です」


「現実では?」


やえは少し探して、ポケットから茶色いテープを出した。


「持ってました」


「在庫管理、終わってる」


「始まってないので」


ハルエが「始めな」と言って、メニュー立てをカウンターに置いた。


店の中は、決めることで動いていた。


テープをどこに置くか。


カップを何個出すか。


椅子を何脚残すか。


スピーカーをどちらに向けるか。


紙ナプキンをどの箱に入れるか。


どれも、小さい。


小さいのに、誰かが決めるたびに、店の形が少し変わる。


佐知の鞄の中では、書類が底にある。


母のLINEには既読がついている。


そこだけ何も変わっていない。


「阿久津さん、これ持ってて」


やえがマスキングテープを差し出した。


佐知は反射で受け取った。


黄色いテープだった。


軽い。


軽いのに、持つと役割ができる。


「何に使うの」


「分かりません」


「分からないもの持たせないで」


「分からないもの、持ってるの得意そうなので」


佐知はやえを見た。


やえはいつもの顔をしている。


からかったのか、ただ言ったのか分かりにくい顔。


佐知の手の中で、テープの紙芯が少しへこんだ。


鞄の中の紙とは違う音がしそうだった。


「それ、印つけるやつ」


ハルエが言った。


「残す箱と捨てる箱、分けるから」


「黄色が残すほうですか」


佐知が聞く。


「今決める」


ハルエはそう言って、黄色いテープを佐知の手から取った。


残す。


捨てる。


今決める。


言葉が店内に置かれるたびに、佐知は少しずつ息苦しくなった。


誰も佐知の大学の話などしていない。


母のLINEのことも知らない。


それなのに、どの言葉も鞄の底へ落ちていく。


やえがスマホを佐知の手元へ向けかけて、やめた。


佐知は気づいた。


「撮らないの」


自分から言ってしまった。


やえはスマホを下げた。


「今日は、まだ」


「まだ?」


「阿久津さん、手が忙しそうなので」


忙しくはない。


何もしていない。


ただ、黄色いテープを持たされ、すぐ取られただけだ。


でも、自分の手が固いことは分かった。


佐知は鞄の紐を握り直した。


スマホが中で紙に当たる。


母の画面を開けば、既読だけがついたままの吹き出しが出る。


返事はない。


喫茶ポニー跡では、開けとく日の準備が進んでいた。


カップは乾き、椅子は並び、残す箱と捨てる箱には色がついていく。


佐知だけが、どちらの箱にも入らないものを鞄の底に沈めていた。

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