第065話 チャントノト・一
帰ってから、佐知は靴下を脱がないまま床に座った。
部屋の電気はつけていない。
窓の外の明るさだけで、机の脚と、椅子にかけたシャツと、床に置いた鞄の輪郭がぼんやり見えた。
鞄は倒れている。
中身は出していない。
開いた口から、青いクリアファイルの角だけが見えていた。ファスナーの金具は床に当たって横を向き、歩くたびに拾ってしまうような小さな光を返している。
スマホは手の中にある。
喫茶ポニー跡で撮らなかったスピーカーは、画面の中には残っていない。最近削除した項目にもない。アルバムを開いても、そこにあるのは前に撮ってすぐ消した喫茶ポニー跡の写真と、やえから送られてきたブレた写真ばかりだった。
撮らなかったものは、探しても出てこない。
でも、手には残っている。
弓削の「撮るんすか」。
やえの「保留」。
片方だけ鳴っていた音。
佐知はスマホを伏せた。
伏せると、机の上の白い紙が目に入った。
前に鞄へ押し込んだ休学延長の書類とは別に、封筒から出したままの案内が数枚ある。折り目の位置が少しずつずれて、端だけ重なっている。重なっているのに、どの紙も自分が一番上だと言いたそうに白い。
佐知は足を伸ばした。
靴下の裏に、床の細かい埃がつく。
洗濯物を畳む。
シャワーを浴びる。
鞄の中身を出す。
どれも、やれば終わることだった。
終わることから順番にやれば、机の上の紙だけが残る。
それが嫌で、佐知は何もしなかった。
スマホが震えた。
短く一回。
メールだった。
佐知は伏せたスマホを見た。
裏返した黒い板のまま、通知の中身は見えない。
見えないのに、差出人が分かる気がした。
嫌な予感は、いつも無駄に当たる。
佐知はスマホを持ち上げた。
ロック画面に、大学の事務課の名前が出ていた。
件名は長く、途中で切れている。
【重要】休学期間満了に伴う手続きについて
佐知は一度まばたきをした。
延長。
前は、その言葉があった。
今回は、満了だった。
佐知はその二文字をしばらく見た。
使い切ったみたいな言葉だと思った。
佐知は何も使い切っていない。
ただ、日数だけが先に進んだ。
それなのに、画面の中では期間が満了する。
佐知は通知を開かなかった。
でも、開かなければ済む時期ではないことも分かっていた。
指が勝手にメールアプリへ動いた。
一覧の中で、その件名だけが少し太く見える。
未読の印。
読んでいない。
読んでいないから、知らない。
そんなことは、もう通らない。
佐知はメールを開いた。
本文は、事務的だった。
休学期間の満了に伴い、復学、休学継続、退学等の希望について、期限までに所定の手続きを行ってください。
希望。
また、その言葉がある。
復学。
休学継続。
退学。
等。
等、で済ませられるものの中に、自分が入っている。
佐知は画面を少し下へ動かした。
添付ファイル、問い合わせ先、学生相談室、事務課窓口。
受付時間。
どの文字も、きちんとしていた。
下のほうには、期限の日付があった。
数字はただ並んでいるだけなのに、他の文字より硬く見えた。
何月何日まで。何時まで。書類必着。窓口提出可。相談を希望する場合は、事前に連絡。
どれも、こちらの都合を聞く形をしている。
希望する場合。
相談する場合。
来られない場合。
場合ばかりなのに、佐知がどの場合に入るのかは、佐知が選ばなければならない。
選べない場合、という欄はなかった。
佐知は親指で画面を戻した。
戻しても、日付はもう見たあとだった。
見たあとになったものは、見なかった時の場所へ戻せない。
きちんとしているものは、佐知の部屋に合わない。
床に座ったままの自分。
脱いでいない靴下。
畳んでいないシャツ。
倒れた鞄。
端が曲がった書類。
その全部を、スマホの画面が白く照らしている。
佐知はメールを閉じた。
閉じても、読んだことにはなった。
未読の印は消えた。
消えた分だけ、少し逃げ場が減った気がした。
太字だった件名が、他のメールと同じ濃さになる。その変化は小さすぎて、誰かに見せても分からない。佐知だけが、さっきまでそこに印があったことを見ていた。
佐知はメールアプリの一覧に戻った。
大学の事務課からのメールは、他にもいくつか並んでいる。
以前の休学延長手続き。
窓口時間の変更。
学生相談室からのお知らせ。
全部が、同じ差出人の顔をしている。
どれも読んだり読まなかったりした。
読んだメールは薄くなり、読んでいないメールは太いまま残る。
でも、薄くなったメールのほうが軽いわけではなかった。
読んだものほど、部屋の中に増える。
目には見えないのに、机の上の紙より場所を取る。
佐知はカメラを開いた。
理由は分からない。
たぶん、今の部屋を撮ればいいと思った。
何も決めていない部屋。
何も片づいていない床。
大学のメールを読んだばかりのスマホ。
机の上の白い紙。
これなら、ちょうど情けない。
ちょうど、自分の今の形に近い。
画面の中に、机の脚が映った。
白い紙の端。
床に落ちた靴下の毛玉。
鞄の口。
スマホを持つ自分の膝。
どれも、写真にしてうまくなるようなものではない。
やえなら撮るかもしれない。
弓削なら、見なかったことにする箱に入れるかもしれない。
ハルエなら、片づける前に「邪魔」と言うかもしれない。
佐知はシャッターボタンの上に指を置けなかった。
撮ったら、情けない自分が本当にそこにあることになる。
撮らなくても、あるものはある。
前に自分で言った言葉が、遅れて戻ってきた。
戻ってきたくせに、全然役に立たなかった。
スマホが震えた。
カメラの画面の上に、LINEの通知が落ちてきた。
母の名前。
佐知は動かなかった。
通知は一行だけ表示された。
一人で決めなくていいからね。返事だけでもして
怒っていない。
責めていない。
たぶん、母は本当にそう思っている。
一人で決めなくていい。
返事だけでもして。
その「だけ」が、佐知の指を止めた。
返事だけ。
それだけができない。
カメラの画面には、机の脚と白い紙がまだ映っている。
通知の文字は、上に重なったまま消えない。
佐知はシャッターを押さなかった。
LINEも開かなかった。
画面だけが、部屋の薄暗さの中で白く残っていた。




